漸く屋根裏部屋のお湯が流れるようになった。時間が掛かったには理由があるのだが、ここ三十年以上の経過を知らない者であると、どうしても着手が遅れる。先ずは再び篭る。
陽は日曜日には待たれるのだが、最低気温がこの冬最低になるようで、態々日曜日に仕事机に就くかどうかは疑わしい。しかし週明けから寒さが緩むので再び階下に下りれるかもしれない。
ヒーターの水の流れが悪くなって、三週間ぐらいで止まってしまったが、日曜日からここまでで階下を暖める為に無駄な燃料を使ったが、得たこともあった。なによりも仕事机の横のヒーターを使えるようになった。今後どうしても必要ならば上手に使える方法を会得した。その他ではヒーターの上につけるスロット状の物へのアイデアが浮かんだ。
これで漸く、先週設置しなおした小さなスピーカーを試すことが可能となった。先ずはDCHの生中継をどうするか。ラディオ生放送がないので、音も聴かなければいかず、出来れば映像もそれなりに観たい。シェーンベルクの「変奏曲」もあるので、再放送と二回観てもいいかとも思う。
既に手元にあるブーレーズ指揮の全集からも流してみたが、やはり変奏が進んで音化がとても難しいことになっている。
1928年12月3日に初演された最初の大管弦楽の為の12音を使った作品とされるが、フルトヴェングラーの委嘱で難産であったようだ。特に第五変奏曲で躓いていたらしい。なるほど、その辺りで先の見通しが悪くなってきているのは感じられる。
同時代の指揮者と作曲家が共通していたのはドイツ音楽至上主義で、第一次世界大戦開戦時にアルマ・マーラ―に、他の文化圏からの音楽に侵されていると記している。フルトヴェングラーの方も至上主義は次の大戦でその聴衆がいないところでは指揮出来ないとした言葉でも明らかだ。そして実際に初期の調性の「浄夜」や「ペレアス」などを評価していて、無調の五つの管弦楽曲も指揮していたという。
しかし、12音音楽を催促して受け取って数少ない練習までを、後年1926年からソロチェリストであったピアティゴリスキーが回想して書いているように、なにがなんだかわからない様に音符を攫っていただけのようで、途方に暮れていたところ最後の練習がやって来た。そして、少し安心した表情でフルトヴェングラーは語った。
「諸君、今し方ヴィーンから朗報を受け取りました。作曲家は来ないようです。」
ブラーヴォと湧きたったことでその事情は知れる。しかし弟子のヴェーベルンなどは初演会場にいて、信じ難い無責任と非難している。一方ベルクか、拒否も多かったがそれなりに受け入れられたと書いているものもある。弟子たちが頑張って声援を送ったとなっているが、笛などでの非難と同様に同じぐらいに新しもの好きの聴衆はいたのではなかろうか。その後、カラヤンも録音しているが、なにがなんだか分からないサウンドで、それほど前任者と変わらない。アバド指揮、ラトル指揮でもこの曲で大きな成功はしていない筈である。愈々天才ペトレンコの出番であろうか。
参照:
»Unglaublich! Ganz unverantwortlich!«, Schönbergs op. 31 unter Wilhelm Furtwängler
楽聖のアッカンベー 2023-01-27 | 音
二つあることは三つめも 2023-01-26 | 雑感
陽は日曜日には待たれるのだが、最低気温がこの冬最低になるようで、態々日曜日に仕事机に就くかどうかは疑わしい。しかし週明けから寒さが緩むので再び階下に下りれるかもしれない。
ヒーターの水の流れが悪くなって、三週間ぐらいで止まってしまったが、日曜日からここまでで階下を暖める為に無駄な燃料を使ったが、得たこともあった。なによりも仕事机の横のヒーターを使えるようになった。今後どうしても必要ならば上手に使える方法を会得した。その他ではヒーターの上につけるスロット状の物へのアイデアが浮かんだ。
これで漸く、先週設置しなおした小さなスピーカーを試すことが可能となった。先ずはDCHの生中継をどうするか。ラディオ生放送がないので、音も聴かなければいかず、出来れば映像もそれなりに観たい。シェーンベルクの「変奏曲」もあるので、再放送と二回観てもいいかとも思う。
既に手元にあるブーレーズ指揮の全集からも流してみたが、やはり変奏が進んで音化がとても難しいことになっている。
1928年12月3日に初演された最初の大管弦楽の為の12音を使った作品とされるが、フルトヴェングラーの委嘱で難産であったようだ。特に第五変奏曲で躓いていたらしい。なるほど、その辺りで先の見通しが悪くなってきているのは感じられる。
同時代の指揮者と作曲家が共通していたのはドイツ音楽至上主義で、第一次世界大戦開戦時にアルマ・マーラ―に、他の文化圏からの音楽に侵されていると記している。フルトヴェングラーの方も至上主義は次の大戦でその聴衆がいないところでは指揮出来ないとした言葉でも明らかだ。そして実際に初期の調性の「浄夜」や「ペレアス」などを評価していて、無調の五つの管弦楽曲も指揮していたという。
しかし、12音音楽を催促して受け取って数少ない練習までを、後年1926年からソロチェリストであったピアティゴリスキーが回想して書いているように、なにがなんだかわからない様に音符を攫っていただけのようで、途方に暮れていたところ最後の練習がやって来た。そして、少し安心した表情でフルトヴェングラーは語った。
「諸君、今し方ヴィーンから朗報を受け取りました。作曲家は来ないようです。」
ブラーヴォと湧きたったことでその事情は知れる。しかし弟子のヴェーベルンなどは初演会場にいて、信じ難い無責任と非難している。一方ベルクか、拒否も多かったがそれなりに受け入れられたと書いているものもある。弟子たちが頑張って声援を送ったとなっているが、笛などでの非難と同様に同じぐらいに新しもの好きの聴衆はいたのではなかろうか。その後、カラヤンも録音しているが、なにがなんだか分からないサウンドで、それほど前任者と変わらない。アバド指揮、ラトル指揮でもこの曲で大きな成功はしていない筈である。愈々天才ペトレンコの出番であろうか。
参照:
»Unglaublich! Ganz unverantwortlich!«, Schönbergs op. 31 unter Wilhelm Furtwängler
楽聖のアッカンベー 2023-01-27 | 音
二つあることは三つめも 2023-01-26 | 雑感