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千葉は佐倉の国立歴史民俗博物館を見学

2016-03-06 13:19:22 | 日記・エッセイ・コラム

歴博は何かで知って一度訪れたいと思っていた。

国立博物館はたいていは東京都内にありますが、国立歴史民俗博物館は千葉の内陸部の佐倉というところにあった。

佐倉までは鉄道路線が頭に入っていなかったので、乗り継ぎにずいぶんロスがあった。

湘南新宿ラインと同じように総武本線と横須賀線が乗り入れしているし、本八幡までは都営新宿線が乗り入れしているから、知っていればわりかし早くたどり着けます。

私はスマホを使っていないので、行き当たりばったりの「旅」でした。

30分歩けばたどり着けそうだが、急いでいたので駅前からバスに乗った。バスは京成佐倉駅を経由して国立歴史民俗博物館につきます。

歴博がある緑地は小高い丘で、昔は佐倉城址があったところです。

国立なので巨大な博物館でした。

土曜日でしたが観客は少なめです。東京にあったら、もっと大勢の人が来るでしょう。歴博は佐倉という街の町おこしを兼ねているのかも。閉館が17:00じゃ早すぎとの声も聞きました。

縄文式時代の原始人の頭蓋骨がしょっぱなに展示されています。

上野の国立博物館とダブるところもあります。

本物の遺品を見て感じることは良いことです。

模型がたくさんあります。

歴博といっても、ここは日本の歴史に特化しています。

この高床式の家は2000年ほど前の家を復元したもの。でも製材がなかった頃だからこんなにきれいには造れなかっただろう。校倉組みだって当時だったら丸太のはずだ。

鉄器が出てくる前の時代ですから。

鉄器が入ってきてもノコギリを生み出すには、まだ年数が必要だった。

復元した石斧はえらくきれいじゃないですか。

もっとも、原始人も現代人も同じような美意識があるだろうから、道具は案外きれいに作っていたかもしれない。

こんな形状だったら、斧として使いやすかっただろう。

西暦200年あたりの銅鏡です。

中国から賜った銅鏡を、我が国の住人が真似て作りだした。

中国製の銅鏡を元に鋳型を起こして、銅鏡を複製するので文字や柄がだんだんぼやけてくる。

これはキレイなので複製じゃないか?

じきに古墳が出てきて、大王クラスの者の棺が立派になってきた。

石棺で全国同じデザインだそうだ。

石の棺桶屋さんグループが各地に出張して作ったのではないかと想像されています。

BC500年頃か。

日本に紙の製法が来る前は、木簡で字をしたためていた。

右端の木簡には長屋親王と書いてあった。

隠岐の島の岩陰を再現した。

隠岐の島は女人禁制で、島の物を持ち去っても動かしてもいけないという不文律がある。

だから、隠岐の島の自然は太古のままらしい。

1500年前の催事器が、そのままごろごろ置いてあるそうです。

戦国時代には鉄砲の伝来があった。

戦いが刀、弓矢から飛び道具に変わった瞬間です。

鉄の特性を良く生かした道具ですね。

御朱印船で中国や朝鮮を往復していました。

秀吉が朝鮮を巡って中国と争ったので、しばらくの間途絶えていました。江戸時代になってから、徳川将軍と朝鮮国王は対等な関係を表す書式による書翰(国書)を取り交わした。日本では朝鮮との関係を「通信の国」と表現した。朝鮮では日本との関係を「交隣」と呼んだ。朝鮮では中国との関係を「事大」(大いに事える)と表現していて、いかにも中国の属国(植民地)のようだった。中国は朝鮮のことを候国(いわゆる属国)と呼び、日本は矮国と呼んでいた。どれもこれも劣った国という意味があって中華思想がバリバリだった。

ちなみに中国は西域のイスラムやラマ教の人々を蛮子と呼んでいた。周辺国はすべからく未開の民と見下していた。北京や北のほうが首都の時は、北方地域の中国人は上海や広州の人たちを南蛮と呼んでいたという。中国人から聞いたので確かですが、私たちは南蛮とは南蛮渡来の白人のことだと思っていた。だけど南蛮の語源は中国国内の差別用語だった。日本で南蛮の言葉が使われるようになったのは、南蛮の最初の意味の南方中国人を指していたのだろう。その中国系南蛮と白人(オランダやポルトガル)が南方から来るようになったので、それらをすべてひっくるめて南蛮になったのだろう。同じ語源としてケトウ(毛唐)に見てとられる。これこそ、毛深い白人と唐人を一緒によんだ言葉だ。

ところで、中国は日清戦争で日本の軍事力に非常に驚いて、中国の産業の近代化の必要性を感じた。日本は明治維新から、西洋文明を遮二無二取り入れていたからだ。

江戸時代の港町。

小舟ばかりですね。

江戸時代の日本橋か。

木造の船で大海を航海したんですねー。

船室の様子です。

歴史博物館なので、古代、貴族、戦国時代、明治維新、戦前戦中、戦後と別れて展示してあります。

そのほかにも文化というコーナーがあって、ある一時代の日常生活を模型化したコーナーもありました。

ある一時代の典型的な日本家屋です。

こちらは、ずいぶんみすぼらしくなったが、戦後のバラックを再現した物。

これだと、日本人の生活がだいぶ退化した感じですね。

戦後は、そりゃ食べ物がなくてひもじい思いをみなさんされたそうです。

農家はその点、自分で作物を作っていたので、都市部の人々と違い食べ物には不自由がなかった。

都市に住む裁判官が規則を守り闇米に手を出さないで餓死したのはこの時代。美談として聞いたが、幼心にいくら美談とはいえ、死んじゃったら元も子もないじゃんと思った。いつの時代にもバカを見るのは法を守る方かなーーー。

 

戦後、米軍が日本を統治して農地解放を進めたので、日本国内の農業復興が早まったと、四国の高齢の農家さんから聞いた。

つまり、戦前は農民といっても農地は地主から借りて耕すものだった。

戦後の農地改革で耕していた農地は、耕していた小作人に分け与えられた。画期的なことで、ある意味で資本主義をひんまげるような出来事だった。それを資本主義の権化みたいな米国が、日本に農業政策を施した。

戦前は、収穫の秋になると、小作人は地主に貢ぎ物を差し出しに行ったのだ。

戦後日本の復興が早まったのは、農地解放が行われたことが非常に大きかったのではと、高齢の方はおっしゃっていました。地主から土地を取り上げて、小作人に土地を分けたら、自分の農地だもの、収穫したら収穫しただけ自分の物でしょ。小作人だった農家さんは、そりゃ一生懸命働きます。

小作人は秋の収穫が終わると、米俵を大八車に積み上げて、地主さんを一軒一軒回り、米俵を下ろしていった。お話を聞いた高齢の方も、当時、幼児だった記憶の中で、いっぱい積んだ米俵の上に跨がせられて、配るたびに減っていく米俵が、これが全部家族の物になったら、、、と幼児の心でも悲しみを感じたと言っていた。それが、作れば作るだけ家族の収入になる新時代になったのだから、さぞかし画期的に嬉しかっただろう。

小作人は地主さんに収穫物をしぼり取られていたんですね。

戦争が終わって、2重の意味で農民や庶民には「米軍さまさま」だった。

都市に住んでいた者は、そんなことにはまったく気が付きもしなかった。私は貴重な体験談を、本人から聞きました。最初は米俵にまたがっていたが、年貢に取られて大八車がカラになって、幼少ながらさぞかし悲しかったでしょう。

大阪の人だったら知っているビリケン(幸運の神)さま。

ビリケンは全国区じゃないから知らない人がほとんどかも。

ビリケンが米国生まれだとは、もっと知らないでしょう。

米国女性が作り出した物なので、あちらにも同じ(けったいな)物があるといいますーーー。

 

国立歴史博物館は一回ぐらい見ておくのも良いというくらいかな~~~。

2025年1月 群馬県立歴史博物館

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国立歴史民俗博物館(千葉佐倉)

https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/aa7190e51bbb1f2b13ecfdf989094678

 


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