人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

「基本的管理の大きな失敗?」・・・「アメリカ国債はデフォルトしない」ガイトナー発言

2011-05-26 04:34:00 | 時事/金融危機
 



米国の債務不履行は「決して」ない=ガイトナー財務長官
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-21362420110525

短い記事なので全文引用します。

<引用開始>

[ワシントン 25日 ロイター] ガイトナー米財務長官は25日、米政府によるデフォルト(債務不履行)の可能性を否定した。

 長官は米政治情報サイト、ポリティコとの実況インタビューで「はっきり言うが、米国は決して債務の履行を怠ることはない」と言明し、「デフォルトすれば基本的な管理の大きな失敗ということになる」と述べた。

 また「議会はこれまでどおり連邦債務上限の引き上げを承認する」と強調し、米政府の計画も代替策も、議会が債務上限引き上げを承認することだと述べた。

 米政府には不測の事態に備えた対応策がないということかとの質問に対しては、議会がデフォルトを容認することはないとの確信を繰り返し表明した。

 米議員による予算協議では、一部の共和党議員が強硬姿勢を示している。

<引用終わり>

■ 「基本的管理を失敗した結果」アメリカ国債はデフォルトする? ■

ガイトナー発言を意地悪に解釈すれば、「アメリカは基本的管理の大きな失敗を犯したから、アメリカ国債がデフォルトするのだ」となります。

では、「基本的管理」とは一体何なのでしょうか?

① 財政赤字の拡大を無視して、戦争を遂行した
② 強いドルを目指さずに、ドルを増刷して「弱いドル」にしてしまった
③ 医療費の国家負担が増えるにも関わらず、国民皆保健制度を導入した(不完全であるが)
④ 住宅バブルを放任した
⑤ 詐欺金融を野放しにした

挙げれば切りが無い程に、アメリカは「基本的管理」をオザナリにしてきました。

ガイトナーが「アメリカ国債はデフォルトしない」と言う度に、「アメリカ国債はデフォルトする」という「こだま」が返ってきます。

・・・ところで、今回は「情報操作の初級編」を活用してみました。
「ガイトナー」のgoogol画像検索で、最初に表示されるのが、この写真というのは、世も末という事でしょうか・・・・。

「不可避な過去」を責められるのか?・・・「海水注入中断」は罪か?

2011-05-26 03:12:00 | 福島原発事故
 

■ 「再臨界の可能性はゼロでは無い」・・・斑目氏が発言 ■

東電が現場判断で開始した圧力容器への海水注入を、官邸の指示で中止したかどうかが注目を集めています。

斑目原子力安全委員長が「再臨界の可能性はゼロでは無い」と発言した事に対して、菅首相始め官邸サイドが過剰に反応して、海水注入を一時ストップさせた事が、事故を深刻化させたとして、批判を受けています。

■ 「今だって再臨界してないとは言い切れない」・・・斑目氏の5月23日の発言 ■

次の記事を読んでいただきたいと思います。

斑目委員長「今だって再臨界してないとは言い切れない」 久木田委員長代理「(可能性)ゼロだと思う」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw66290

<引用開始>」

-前略-

七尾記者: 政府の当初発表(政府・東京電力統合対策室が5月21日に、福島第1原発1号機の原子炉への海水注入を中断した際、班目委員長が菅直人首相に「再臨界の危険性がある」と進言したと発表)のなかで、委員長はどの部分を問題視したのか。

斑目委員長: 私として大変気になったのが2点ある。一点は、私の方から再臨界の可能性があるというかそういう発言になっていたということが一点。もうひとつがその前の朝刊などの表現では「可能性」だったのがさらに「危険性がある」という表現になっていた。この2つについて、私としては納得できないというところがある。第一に再臨界の問題については、これは原子力工学の常識としてそれまで真水を入れていたわけである。真水を海水に変えたことによって再臨界の可能性が高まる、というようなことを私が申し上げるはずがない。これは総理かあるいは他の人かその辺はもう私は記憶にはないがどなたかがおっしゃったのに対して「可能性はもちろんゼロではありません」というような回答をしたはずだ。可能性と危険性というのも相当気になる表現で可能性があるとは言わない、可能性はゼロではないといったと思うのだが、危険性という表現になってしまうとあたかも再臨界が起こると危険だ、と私が言ってるような印象を与えるのではないか、という点。少し補足をさせていただくと、現実に今だって再臨界をしてないとは言い切れないと思う。しかしながら問題は熱の発生であって崩壊熱が大量に出ている。それからあの時点ではジルコニウムと水との反応による化学発熱も相当なものであったはずだ。再臨界という現象が起こったら、中性子は出てくるかもしれないが熱の発生量は微々たるものだ。そういう意味であの段階で非常に急がなければならないのは、あくまもで冷却であって、再臨界について何か考えなければいけないから冷却を止めるなどというのはとんでもないことであると。これが私の発言であったはずはない、ということから訂正を申し入れたということだ。

-後略-

<引用終わり>

■ 再臨界は起きていたのか? ■

この斑目発言は大変興味深いものがあります。

今まで政府も、保安院も、東電も再臨界の可能性は徹底的に否定してきました。
東電の現場サイドが再臨界物質を検出しても、保安院が再測定をさせて、その結果「再臨界は起きていない」と結論付けていました。

ところが、今回、原子力安全委員会の斑目委員長は、あっさりと「今だって再臨界してないとは言い切れない」と言ってしまっています。

この発言には、さすがに同席の久保田委員長代理(原子力安全委員会)が、すかさず再臨界の可能性を否定しています。

<引用>

久木田委員長代理: 一点ほど補足する。先ほど委員長が現在福島第1発電所の原子炉で「再臨界が起こっている可能性はないではない」ということをおっしゃったと思うが、これは本当に可能性はゼロではないという意味で、私はゼロだと思うが、そういうふうに受け取っていただきたいと思う。わざわざ発言したのは再臨界ということについて、やはりいろいろな受け取り方があるようで、我々はこういった事故状態で再臨界が起こったとしても、それが海水注入を止めるような危険性を伴うものではないということを当然のこととして考えているわけだが、再臨界という言葉を聞いただけで何か爆発が起こるとか受け取られておられる方がないではない、ということを考えてあえて補足する

<引用終わり>

■ 「再臨界」のイメージが変化した ■

私は兼ねてより、圧力容器内では、「小規模の再臨界は起きている」と書いてきました。
京都大学の小出教授も、小規模な再臨界の可能性を指摘しています。
「測定ミス」とされてしまった、「汚染水からの再臨界物質の検出」と、「半減期の短い放射性ヨウ素131の量が少なくならない」事が、再臨界の発生を示唆していました。

「2号機で局所的再臨界?・・・予断を許さない状況に(3/27)」
http://green.ap.teacup.com/pekepon/367.html

「1号機再臨界・・・データが示すもの(4/9)」
http://green.ap.teacup.com/pekepon/383.html

3月の事故直後、「再臨界」=「爆発を伴う重大事故」と認識されていまいた。

3月12日に斑目委員長が「再臨界の可能性はゼロでは無い」と発言した時は、「再臨界によって大規模爆発が発生し、チェルノブイリの様な広範囲に渡る高濃度の放射能汚染の可能性はゼロでは無い」と、会議の出席者は解釈したはずです。当の斑目委員長自身も、「再臨界」という言葉を、「爆発を伴う事故」という意味あいで使用したはずです。

ところが5月23日の斑目発言においては、「再臨界」=「極めて限定的で小規模な再臨界で、それによる発熱は崩壊熱や反応熱より低い」と変化しています。

今回の福島事故の最大の成果は、「炉心溶融によって再臨界は発生するが、継続的かつ大規模な再臨界に発展する確率は低い」という事が判明した事です。

但し、爆発的再臨界に発展した可能性もゼロではありません。
原子力事故は、確率的であり、非線形的な現象です。
条件さえ揃えば、再臨界爆発は起こりうる事は、忘れてはいけません。

■ 定義の異なる「再臨界」を同一視する愚 ■

「海水注入を一時中断させた」事を非難するマスコミや世論は「後出しジャンケン」です。

「爆発的再臨界が発生しなかった」という結果を踏まえて、3月12日の官邸の対応を非難する事は、フェアーではありません。

3月12日時点では、「爆発的再臨界」を防ぐ事が対策の全てであり、「爆発的再臨界の可能性がゼロっでは無い」海水注入を躊躇したからと言って、それは間違った判断ではありません。

■ 日本人は過去を現在の物差しで否定する ■

日本の世論やマスコミの悪癖は、「過去の出来事を、現状から批判する事」です。

海外でも過去を分析する記事は見掛けます。
しかし、「過去において知りえなかった事実によって犯された過ちを、過去に遡って追求する事はあまり行われません。」

「グリーンスパンが住宅バブルを放置したから、リーマンショックが起こった」と指摘する記事はありますが、グリーンスパンは「住宅バブルが発生していたかどうかは、あの当時は知り得なかった」と発言し、罪を問われる事はありません。

西洋においては、過去の政権が糾弾される事はあまりありません。
テロとの戦争を始めた、ジョージ・ブッシュですら、罪に問われません。
政権を去った者達は、後々、回顧録を書いて「実はあの時はね・・・」なんて、過去の事実をリークする振りをしながら、過去を都合良く改変したりもします。

キリスト教社会では「汝、他人の罪を許せよ」なのでしょう。

一方、「水に流す」や「みそぎ」などという言葉とは裏腹に、日本人は過去に拘ります。
これは日本に限らず、民主主義が成熟していない地域の特徴でもあります。

韓国大統領は、退陣した後、ほぼ全員逮捕されています。
中国は千年前の指導者であっても、国賊となれば、その墓に小便を掛ける者がいるそうです。
儒教の文化圏では、末代まで過去の罪が問われるのです。

ここで注意したいのが、「過去の罪」とは、現在の為政者から見た「罪」である事です。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉の通り、時の為政者によって価値観自体が正反対にシフトしてしまいます。

■ 「神」の存在と不在 ■

キリスト教文化圏では、いつも神様が見ています。
「神」は絶対的な価値基準で、為政者が変わっても、価値基準が大きく変わる事はありません。

尤も、西洋人も「神」を共有しない者には不寛容です。
東京裁判の「人道に対する罪」の様に、後だしジャンケンも平気です。
西洋人以外には「神は不在」なのでしょうか・・・?

■ 海水注入中止の判断ミスは「不可避な過去」 ■

過去の罪が問われるのは、その行為が行われる時に、「罪の認識」があるかどうかです。

今回の原発事故で菅政権が問われるべき罪は「情報の隠蔽」です。
この事は、原発事故がある程度収束した時点で、事の次第を詳らかにし、「内閣総辞職」で国民に詫びるべきです。。


しかし、現在菅政権が責められている「海水注入の遅れ」は、原発事故の経緯が予測出来ない時点の話であり、極めて「学術的」な問題です。
「学問」は間違っていても「罪」には問われません。

もし、仮に菅総理の指示で「海水注入が中断」させれていたとしても、海水注入によって「爆発的再臨界」の恐れがあった3月12日時点においては、その判断ミスは「不可避な過去」になるのではないでしょうか?