■ 映画が映画として成立する為に必要な事 ■
「人は何故映画を観るのでしょう?」
単純な質問ですが、答えは単純ではありあせん。
アクション映画でスカッとしたいから。
サスペンスでハラハラ、ドキドキしたいから。
恋愛映画でトキメキたいから。
感動巨編で涙を流したいから。
映画は日々の生活では味わえない「何か」を味あわせてくれます。
それでは「日々の生活」を克明に描写したらどうなるでしょう?
例えば第三者が撮影した、あなた自身の映像をスクリーンで見るとしたら・・。
はたしてそれが、あなたにとって映画として成り立つでしょうか?
「それはホームビデオだよ」とか
「それはドキュメンタリーだよ」と言う人も居ます。
それでは、誰かの日常を克明に見せられたらどうでしょう?
それがはたして映画として成立するでしょうか?
「バベル」でアカデミー賞を取った、イニャリトゥ監督の最新作
「BIUTIFUL」はそんな事を考えさせられる映画です。
■ 癌で余命2ヶ月のチンピラの物語 ■
スペインの名優ハビエル・バルデム演じるウスバルは裏社会のチンピラです。
中国人のコピー商品を、セネガル人に卸したり、
彼ら社会的弱者から上前をハネて、警官に賄賂を渡したり
およそ堅気とはいえない仕事で生計を立てています。
そんなウスバルには2人の子供がいます。
小学校6年生くらいの女の子と、1年生くらいの男の子。
ウスバルは2人を男手一つで育てています。
彼は父親として、厳しくかつ愛情たっぷりに子供達に接しています。
母親は躁うつ病持ちで、エキセントリックな言動が目に余り、
ウスバルとは別居していますが、
時々ふらりと子供達に会いにやってきます。
そんなウスバルは癌で余命2ヶ月の宣告を受けます。
■ 不幸は不幸を連れて来る ■
ウスバルはチンピラですが、情の厚いチンピラです。
自分が搾取する弱者達を庇護し、気遣います。
ところが不幸は不幸を連れてやってきます。
セネガル人達が警察に検挙され、
中国人労働者達にも重大な事件が発生し、
再び同居した妻は、やはりイカレタ女で問題ばかり起こします。
余命2ヶ月の間に人生最大の不幸が次々とウスバルを襲います。
一方、体は日一日と癌に蝕まれていきます。
失禁を繰り返し、大人用の紙オムツを当てながら、
それでもウスバルはセネガル人の為、中国人の為、家族の為に奔走します。
死期が迫る中、彼は人生を締めくくるべく
必至でもがき続けます。
■ もはや「映画」では無い何か・・・ ■
カメラはそんなウスバルをラフに切り取って行きます。
極端なアップや、ラフなロングなど、
一種ドキュメンタリーの様な絵作りですが、
仔細に計算されつくされた構図は
観客が我が目でウスバルを観察している様な錯覚に陥れます。
観客はいつしかウスバルと同化して、
彼の人生の最後を我が事のごとく体験します。
フィルムをハサミでちょん切ったような
ザックリとしたカットアップで、
ウスバルと一緒に煮え切らない思いを味わい、
食卓で家族とのひと時を愛おしみます。
「感情移入」という言葉が映画を評する時に使われますが、
「BIUTIFUL」における観客は、
ウスバルに「憑依」してしまいます。
それは「アバター」の3D映像の力を借りた安易な「主観視点」では無く、
ラテン特有の超自然的な力による「憑依」です。
もはやこれは「映画」では無く、それ以上の「何か」です。
■ ショーン・ペンの気持が分かる ■
ショーン・ペンはこの映画の後、15分間客席から立てなかったと言います。
私にはその気持が良く分かります。
ウスバルの日常から、自分の日常に、
自分の肉体に意識が定着するまでに15分が必要なのです。
比較的長いエンディング・ロールで席を立つ観客は居ませんでした。
皆、脱力して座席に座っている事しか出来ません。
この「映画を越えた何か」の体験の後には、
今まで観て来た全ての映画が色あせて感じられます。
■ 映画なんて1年に一本観れば充分だ ■
かつてはミニシアター系の映画が好きで月に何本も見ていましたが、
最近はすっかりシネコンで映画を観る事が多くなりました。
尤もその多くが、「映画」と言えるかどうかという作品ばかりです。
しかし、一年に一本程度、ポスターを見ただけで観たくなる映画があります。
昨年は「ぼくのエリー」で今年は「BIUTIFUL]です。
私は1年に一本、こんな映画に出会えれば幸せです。