
■ 「ライトノベルの文化的位置付け ■
ライトノベルは中高生が読むものと思われています。
確かに大人が電車の中でライトノベルを読みふける姿は、
ほとんど見ることが出来ません。
かつては、電車の中で大人がマンガを読む事は恥ずかしい行為でした。
現在は子供よりも大人が車中でマンガを読む姿を見かける方が多くなりました。
子供達は携帯電話を操作しているか、
DSやPSPでゲームをしている事の方が多いようです。
マンガやゲームは文化として市民権を得ていますが、
ライトノベルが文化としての市民権を得るには未だ時間が掛かるようです。
■ 古典を読めない子供と、ライトノベルを読めない大人 ■
西尾維新の「化物語シリーズ」の一冊、
「偽物語」の中でこの様な会話が為されています。
「子供が古典小説を読めないのと、
大人がライトノベルを読めないのは、同じかもしれない」
そう、大人はライトノベルをバカにしているから読めないのでは無く、
ライトノベルを読む能力が欠如しているのです。
同様に一般的な現代の子供達には、古典小説を読む能力が欠如しています。
■ ビジュアルイメージが実写かアニメか ■
大人が小説を読む時に、脳内に喚起されるイメージは「実写」でしょう。
一方、子供がライトノベルを読む際にイメージする映像は「アニメ」です。
例えば「チームバチスタの栄光」をアニメで想起する大人は居ないはずです。
「涼宮ハルヒの憂鬱」を、実写で想起する子供も皆無でしょう。
ライトノベルの表紙はアニメ絵で、挿絵もアニメ調です。
ですからライトノベルを読む上で、
既に実写的イメージはブロックされています。
言うなれば、ライトノベルの中身と挿絵は不可分な存在です。
■ 急激に薄れつつつある境界 ■
かつて明確に存在した「ライトノベル」と「小説」の境界が
現在急激に薄れつつあります。
現在、書店に並ぶ「大人向けの小説」の表紙に
アニメ絵が使われる事が多くなりました。
これは、「ライトノベル世代」に一般小説を買わせる
出版社の作戦として始まりました、
さらに一般的には「大人向け小説」と思われている作品も、
ライトノベルの影響を無視できなくなっています。
先述の「チームバチスタの栄光」の白鳥のキャラ設定などは、
明らかにライトノベルの乗りで書かれています。
私には彼を実写でイメージする事が出来ません。
彼の言動は、従来の小説の作法からは逸脱するものに思えます。
同じシリーズの「ナイチンゲールの沈黙」はさらにライトノベル的です。
「歌による共感現象で映像を見せる能力」などはSF的設定で
従来の小説では敬遠されるはずですが、作者は躊躇無くそれを採用しています。
「異能」の存在は、極めてライトノベル的設定と言えます。
■ 京極堂シリーズこそ、大人版ライトノベル ■
京極夏彦の「京極堂シリーズ」はエンタテーメントとして最高の出来栄えです。
しかし、その構造は実は極めてライトノベル的です。(ファンに怒られますが)
その証拠に、「姑獲鳥の夏」も「魍魎の箱」も実写映画は極めて駄作です。
ところが「魍魎の箱」のTVアニメは非常に素晴らしい出来です。
京極堂や、薔薇十字探偵社の榎木津は小説のキャラクターとしては
エッジが立ちすぎています。
特に榎木津の「異能」はライトノベル的設定です。
■ 知識の奔流としてのライトノベル ■
ライトノベルの一つの特徴として「異能」の他に
アンバランスな情報量があります。
一部の作家は自分の興味や知識を登場人物の口を通して
滔々と語らせます。
京極堂も凡そ知らない事は無い思われる程の知識の持ち主です。
そして京極堂を通して、京極夏彦は自身の知識を誇し気に開陳します。
「姑獲鳥の夏」では量子力学と認識論
「魍魎の箱」では幻想小説
「狂骨の夢」では真言立川派
「鉄鼠の檻」では禅宗
京極夏彦は興味を抱いた事象を徹底的に調べ、
その知識を京極堂の口を通して披露する事を喜びとしている様です。
これは、ライトノベルの一部の作家達に共通するメンテリティーです。
さすがに京極堂シリーズは作品の世界感と情報開示を高い次元で融合し、
さらには推理小説本来のトリックも織り込むというウルトラC小説ですが、
その根本的な創作意欲は、「知識を披露したい」という個人的欲求にあるようです。
■ 京極堂のライトノベル版、「化物語」 ■
ようやく本日の主題の西尾維新に辿りつきます。
西尾維新の「化物語」は妖怪(怪異)がテーマの小説です。
怪異とは存在するし、存在しない者として描かれます。
社会が、あるいは個人が作り出す幻想でありながら
確固とした影響を持つ存在・・・。
「世の中には、不思議なことなど何もないのだよ」
これは京極堂が作品の中で繰り返してきた口癖です。
「不思議」とは社会や個人による幻想なのだと陰陽師は看破します。
「化物語」の怪異の解釈は、これを踏襲しています・・・というかパクリです。
「何でもは知らないわよ、知っていることだけ」
これは「化物語」の主要登場人物の一人「羽川翼」の口癖です。
不思議とは「知らないこと」であり、
「知っていれば」不思議は存在しないのです。
この様に、ライトノベルである「化物語」は、
京極堂シリーズの中高生向けコピーと思われがちです。
■ 趣味の二次作品としての「化物語」 ■
確かに「化物語」の着想の原点は「京極堂シリーズ」でしょう。
作者の西尾維新は、この作品を個人の趣味として執筆し、
一般に公開するつもりは無かったと言っています。
多分、京極堂シリーズのパロディーとして、
個人の楽しみとして書かれた作品なのでしょう。
同人誌でアニメの二次作品を楽しむ事と同様の作品なのでしょう。
しかし、出来が良かったので出版され、そしてヒットしてしまった。
・・・これには作者も戸惑いがある様で、
勝手に書いた「化物語」と「傷物語」はクォリティーの高い作品ですが、
続編として出版社が企画した「偽物語」以降は、
作者は積極的に作品世界を破壊し、
人気キャラクターや主人公達のイメージを徹底的に壊していきます。
個人的趣味で作ったキャラクターが、
多くの若者達に共有される事に我慢出来なかったのでしょう。
■ 無限の自由を手にしたライトノベル ■
西尾維新は。「偽物語」以降は自主的な創作の動機を失っています。
出版社のリクエストで書かれた作品です。
当然、作品おクォリティーは低下するのですが、
ところが、その投げやりな態度が、
今まで読んだ事もも無いようなジャンルを世の中に生み出してしまいました。
一般的に作品中の人物は、作品世界の外を認識する事は出来ません。
それは小説というジャンルが守るべきルールの一つです。
しかしポストモダンの小説の登場人物達は、
作品世界の外枠を認識する能力を獲得します。
これは「メタフィクション」とか「メタ構造」と呼ばれます。
「簡単に言ってしまえば「ヤッターマン」でボヤッキーが
「全国の女子高生諸君!!」とブラウン管から語り掛けた事を
小説家がやってしまっただけとも言えます。
「偽物語」以降の西尾維新は、このメタ構造のオンパレードです。
作中の人物がアニメ化に言及し、
作者の諦観をダラダラと語り、
ロリコン的展開には、「石原知事に怒られるぞ」と突っ込む。
既にここには「小説」として作中と現実を隔てる壁は存在しません。
友達同士の日常的な会話が、作品の枠を超えて現実世界に流れ出してきます。
西尾維新は「ノーフレーム小説」とも言える新ジャンルを作り出してしまいました。
ポストモダンの小説にも、
キャシー・アッカーの「血みどろ臓物ハイスクール」の様な
パンク小説と呼ばれる異端小説の分野がありますが、
それが読んでいて楽しいかと言われれば、
前衛作品独特の「つまらなさ」を覚えざるを得ません。
ところが、西尾維新は小説という構造をここまで徹底的に破壊しながらも
それをしっかりエンタテーメントとして成立させています。
これこそが、日本のオタク文化の強度だとも言えます。
■ ゲームとしての小説 ■
「化物語」シリーズは、ほとんど会話でストーリーが展開してゆきます。
一人称文学は、主人公の視点で世界が描かれますから、
「会話」によって、作品を描き切る事が容易なジャンルですが、
西尾維新にいたっては、職人的な手際でそれをこなしています。
多分、西尾維新はギャルゲーをプレーする感覚で執筆しているはずです。
次はこの女の子に何と言わせよう?
次はどんなイベントを用意しよう?
このフラグは何処で回収しよう?
まったくもって登場人物達が「フラグを立てる」や「そんなイベントはいらない」
なんて言ってしまう事からして、既に文字で書かれたゲーム状態です。
さらには、攻略されたキャラクターは「デレ」ます。
攻略してしまえば、作者はそのキャラクターに興味を失ってしまうのです。
■ 消費としての文学の最終形態 ■
ほとんどギャルゲー状態の西尾維新作品に比べれば
谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズは、古典的で保守的です。
若者の文字離れが言われて久しいですが、
ライトノベルは売れています。
それは、戦略的にこのジャンルが読者のニーズに応えてきた結果です。
読者の望む「女の子」を提供し、
読者の望む「イベント」や「ストーリー」を提供してきました。
そして「読者皆の宝物」である登場人物の「女の子」は、
決してSEXなんてしません。(子供向け小説だから当然か・・・)
そう、ライトノベルは究極のインタラクティブ構造を創出したのです。
■ プラットフォームの共有が不可欠 ■
「ライトノベルは大人には読めません」
同じ文化的土壌の共有は無くしては楽しむ事が出来ないのです。
「ノンフレーム小説」であっても、プラットフォームの統一は不可欠です。
かつてMACのソフトがWINDOWSで使えなかった様に、
オタク文化というOS無くしては、西尾作品は楽しめないのです。
■ 西尾維新の作家としての力量 ■
こう書いてくると、ライトノベルの作家はレベルが低いと思われるでしょう。
桜庭一樹、有川浩、乙一・・・今をときめく作家達はライトノベル出身です。
乙一は違うだろうというご指摘もありあそうですが、
彼はデビュー当時、「スレイヤーズ」(ライトノベル)しか読んだ事が無かったそうです。
西尾維新の実力はどうかと言えば、
彼は天才の部類に属します。
ポップで薄っぺらな登場人物が
一瞬でシリアスモードに突入し
深遠な思索を披露します。
現代の人気作家達が1冊掛けて作り出す価値観を、
1ページで作り出します。
世界の深遠を覗くような洞察を、一言でさらりとこなします。
その読書量や知識量は想像を絶するものがあります。
ただ、彼は「自分の遊びとして小説を書く事」にしか興味が無いようです。
プラットフォームを違える一般小説の分野では
彼の作品が成立しない事にも自覚的です。
■ 読者に課せられるハードル ■
世界的な最重要作家の一人とも言える西尾維新を大人が楽しむ為には、
オタク文化の習得という、高いハードルを越える事が必要です。
電車の中でライトノベルを平気で読める私は、
既に、このハードルをクリアーしています。
・・・って単なるオタク・オヤジなんだけど・・。
<追記>
近代文学はリアリティーの追求にその存在意義を求めてきました。
登場人物や情景の描写が現実的で、
かつ洗練されている事が良しとされてきました。
しかし、神話をも含めた文学の歴史の中では、
近代文学とて、一つのジャンルに過ぎません。
「本を読む」と「勉強する」がイコールで結ばれる様な狭量の社会では、
ライトノベルは子供世代のサブカルチャー的地位に縛られえてしまいます。
しかし西尾維新が得意とする言葉遊びは、
万葉の時代から日本人が好んで行ってきた知的遊戯であり、
眉ねに皺を寄せながら読むような、社会派の小説よりも
日本文学の伝統に忠実であるとも言えます。
実際にリアリティーを価値基準とする近代・現代文学は閉塞しており
80年代以降のポストモダンの流れの中では
様々な再構築やクロスオーバーが試みられてきました。
南米幻想小説の一群の作家がフューチャーされたり、
スティブン・エリクソンやスティーブン・ミルハウザーの様な
「マジック・リアリズム」と呼ばれる作家達が注目されたりしました。
しかし、それらは皆、自家中毒的な閉塞性に取り込まれいます。
ライトノベルの作家達は、文学の歴史など知らない若者達がほとんどです。
しかし、本が好きで、積み上げて乱読する様な若者が少なくありません。
彼らオタク世代の作家達の理想の世界は、
アニメなどの中にあり、
彼らは、その創作において、彼らなりの理想郷を追求します。
その作品の殆どが、駄作以外の何者でもありませんが、
西尾維新や那須きのこなど、
水準を遥かに超える作家を輩出する豊かな土壌をライトノベルは提供しています。
彼らにとってのリアリズムとは、作品に注す影の様な存在で、
人物や情景が薄っぺらにならない様に振り掛けるスパイスでしかありません。
これは日本のアニメが得意とする手法で、
ホロっとさせる台詞を入れる事で、
ギャグアニメでも妙に深遠な世界感を有している様な錯覚を与えます。
西尾維新の作品は、全くもって言葉遊び以外の何者でも無いのですが、
彼もリアリティーというレトリックを巧みに利用する術を身に付けています。