人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

夏休みの読書感想文の本が決まらない君に・・・有川浩「レインツリーの国」

2012-08-10 06:19:00 | 
 



■ 夏休み恒例企画、「夏休みの読書感想文が未だ終わらない」シリーズ ■

中学生、高校生の諸君は、夏休みの読書感想文は終わりましたか?

今年は少し早いですけれど、
是非皆さんに読んでいただきたい本を紹介します。

それは、『図書館戦争』や『塩の街』、
あるいはドラマにもなった『フリーター家を買う』の作者
「有川浩」の『レインツリの国』です。

ちなみに、ネタバレ全開ですので、ご注意を!!

■ ライトノベルが出会いのきっかけ ■

ライトノベルは子供の読み物です。
いい年をした大人はライトノベルなんて読みません。

でも、かつてライトノベルを読んでいて、
そして大人になった人の心の中には、
かつて中学や高校の頃に熱中した作品への思いが
しずかに眠っています。

この物語は、そんなライトノベルへの思いが
素敵な恋に発展したという、
ある意味、夢の様なお話。

■ ブログやメールで繋がる恋 ■

主人公、向坂伸行は入社3年目のサラリーマン。
彼には中学の時熱中して、
今も実家で「絶対に捨てるな」と親に厳命している
大好きだった「フェアリーゲーム」というライトノベルがあります。

社会人になった今でも、その本を思い出すのは、
ラストが衝撃的だったから。

高校の同級生男子達が、謎の組織とハチャメチャな戦いを演じて
同じクラスのヒロインを守るというSFアクションですが、
シリーズの最終巻で、ヒロインは自分が悪の組織に囚われる事を選択します。
そして、取り残された男子達は、日常に帰って行くのです。

このあまりにも、ライトノベルらしからぬバットエンドが、
伸行の心に小さなトゲとなって引っ掛かっています。

ある日、何の気なしに「検索」して見つけたブログは
「レインツリーの国」という、
都内在住、2X歳、女性のページ。
彼女「ひとみ」も、「フェアリーゲーム」の最終巻にショックを受けたと言います。

彼女は大人になった今だからヒロインの気持が分かると書いています。
いつまでも逃避行を続ける訳には行かない。
私が逃げる限り、彼女を守る恋人は、定職にも就けない。
だって、進学したら、高校の時の様に、敵が襲って来たって
皆で集まって戦う事だって容易では無いではないか・・・。
きっとヒロインはこの事に、男の子達よりも少し早く気付いただけ。
大人になった今だから、作者の宿題の答えが分かった気がします。

そんな内容に、伸行はワクワクする気持を抑えられません。
思わず、「ひとみ」にメールを出してしまいます。
ブログの管理人にコメントはおろか、メールなどするのは始めての伸行。
突然、見知らぬ男性からメールなど来たら、
相手には迷惑だろうかと迷いながらも、
返事など期待しないで送信ボタンを押します。

ヒロインは自分勝手やと思うわ。
今まで皆で戦ってきたのに、一人で決めるなんてなしや・・。

こんあ内容の青春菌だらけのメールに、「ひとみ」から直ぐ返事が来ます。

私は女だから「伸」さんの視点は新鮮でした。

こうして、メールでのやり取りが続きます。
普段、知り合いには見せたことの無い自分達の本心を
二人は、テレながらも伝え合います。

この二人のメールが実に新鮮です。
二十歳前半の二人は、社会人として会社では大人を装っています。
世の中も程ほどに知って、大人の考え方も身に付けています。
でも、昔読んだライトノベルを語る二人は、
大人の仮面を捨てて、等身大の20代前半の男女に戻ります。

「青春菌」なんてお互いで言い合うような
青臭い意見も、二人の間ではOKです。
そこを取り繕わない信頼が、メールを通じて二人の間に成立しています。
「ひとみ」の文章の真摯さに、伸行は彼女を信頼し、
伸行の社会人らしい意見に、「ひとみ」は彼を尊敬します。

■ リアルで会う二人・・・・でも・・ ■

二人はとうどうリアルでデートする事に。
待ち合わせ場所は、新宿紀伊国屋のライトノベルコーナー。

伸行はあまり速く行って、相手が自分を探すのは大変だろうかなどと
細かな思案をしながら、約束の場所へ向います。

そこで、ヘッドホンを耳に当てて、「フェアリーゲーム」を手にしていたのは、
黒い髪を適当な長さで切りそろえた、少し野暮ったい普通の女性でした。
実家が美容院なので、伸行は女性を見た目で判断したりはしません。
いえ、仮にそこにリックドムみたいな女性が現れても、
伸行は一向に構わなかったと彼女に告げます。

生憎の雨模様、お互いの傘の半径が、二人の距離を遠ざけます。
「静かな所でお昼を食べたい」という彼女。
微妙にすれ違う会話。
「字幕版の洋画」でなければイヤだと主張する彼女。
定員オーバーのエレベーターに無理やり乗り込もうとする彼女。

メールの中での聡明さとは裏腹に、リアルな彼女のイヤな面に
伸行は辟易とします。
「君がそんなヤツなんて思わへんかったヤ!」と怒りを露にする伸行に
「・・・重量オーバーだったのですね。」と言う「ひとみ」

その時、瞳の髪に隠されていた補聴器が目に留まります。

そう、彼女は聴覚障害者だったのです・・・。
それがバレルのを必死に隠す為に、ヘッドホンをして待ち合わせ場所に先に現れ、
自分から相手を探さなくても良い状況を作ったり、
辛うじて残る、低音域の聴覚と読唇で会話が出来る「静かな店」を選んだり、
聴覚障害でも内容が分かる「洋画の字幕」に拘っていたのです。

泣きながら、逃げる様にエレベーターに乗り込む「ひとみ」。
ショックで追いかける事すら出来なかった伸行。

■ メールとチャットで関係をゆっくり修復する二人 ■

「ごめん」というタイトルのメールがなかなか書けない伸行。
「願わくば、もう一回君との糸が繋がりますように」と結びます。

二人の関係をメールのやり取りが修復してゆきます。
伸行は聴覚障害者について調べ、
「ひとみ」は、聴覚障害者の実体を伸行に伝えます。

二人はメールやチャットで少しずつ信頼を積み上げてゆきます。
そして、再び、リアルで会う事に。

伸行はそれとない気遣いを「ひとみ」に示します。
しかし、それが「ひとみ」の癇に触る事も少なくありません。

高校の時に事故で聴覚を失ってから、
「ひとみ」は様々な経験をしてきました。
そうした経験は「ひとみ」を頑なな性格に代えています。

かなり「面倒な女」になってしまった「ひとみ」に
それでも伸行は惹かれています。
その「面倒」な所も含めて、好きになっているのです。

二人は、何度も喧嘩をして、
その度に、お互い、一歩ずつ相手に近づいてゆきます。

二人の行く先には数々の困難があるでしょう。
しかし、二人はこれからも、二人で居る事を選んだのです。
「フェラリーゲーム」の主人公達の過ちを、再び繰りかえさない為に・・。

ここまで書けば読んだ気がしますね。
本なんて決して読まないキミも、これで感想文が書ける・・・ハズないか。



■ 障害が無くてコミニュケーションはエラーだらけ ■

『レインツリーの国』は素敵なラブストーリーです。

聴覚障碍者の苦労を、事例を挙げ連ねて書いても
健常者に訴えかけるよりも、
「普通の恋愛」を夢見る聴覚障害者のリアルな恋愛を描く事で、
読者は聴覚障害者の恋を、自分の体験の様に経験します。

この素敵な物語を支えているのは「会話」です。

メールでの会話、チャットでの会話、リアルでの会話。

聴覚障害者は、たとえ聴覚が少し残っていたとしても、
リアルな会話のスピードには付いて行けません。

だから、メールやチャットの方が、自分の考えを正確に伝える事が出来ます。
会話は、よほど相手が注意しなければ、微妙にかみ合いません。

ところが、有川浩は、メールやチャットのコミニュケーションのズレにも注目します。
これは障害など無くても、普通の人と人の間に起こるコミニュケーション・エラーです。

日本語は曖昧な言語です。
ですから、メールの文面も解釈は多様です。
自分の願望や気分によって、
書き言葉でも解釈は変わってきます。

恋する男女の、微妙な臆病さが、
メールの文章を意味深なものにし、
ちょっとした文末に、相手の真意を読み取ろうと必死になります。

障害など無くても、私達のコミニュケーションは実はエラーだらけなのです。

■ 論理的思考による柔らかな会話 ■

有川浩は女性の作家ですが、
彼女のデビュー作の自衛隊三部作や、図書館戦争を読んでも
彼女が相当「理屈っぽい」事は分かります。

有川浩の文章は、飾りが少なく、当たりが柔らかいので、
誰でも気楽に読む事が出来ますが、
登場人物達は皆「論理的な会話」を交わします。

「レインツリーの国」においても、
「思わず口を突いて出る」言葉のその裏の思考過程が明確です。

多くの女性作家が、感覚的に言葉を駆使するのに対して、
有川浩は、論理的に女性像、男性像を組み立て、
シミュレートする様に会話を交わさせます。

だから、男女のすれ違いも、きちんとした理由があって発生します。

それを突き詰めたのが、聴覚障害者と健常者のすれ違いなのでしょう。

だから、この物語は、「聴覚障害」という特殊事情を扱ったのでは無く、
思考過程に違いがある、男と女、
あるいは他人同士のコミニュケーションの物語に還元する事が出来ます。

私達は、普段、何気なく会話を交わします。
何となく流れて行く会話ですが、
初対面の人との会話には、それなりに気を遣います。

「当たり障りの無い会話」を心がけますが、
それは内容のみならず、表現にも、なるべく曖昧さや多義性が混入しない様に心がけます。

一方、家族や気の知れた集団では、
会話はかなり「省略」しても成り立ちます。

抜け落ちた部分を、受けては経験によって補完するのです。
しかし、親しい間にも、エラーは起こります。

ほんの一言が、中の良い相手を傷つけてしまったという経験は良くありますし、
何気ない会話の最中に、カミサンが急に怒りだす事もあるます。

有川浩は、そんな人と人との会話やコミニュケーションに興味を持っています。
「言葉狩り」を主題にした「図書館戦争」は、
社会と人との、言葉によるコミニュケーションの阻害を描いた作品です。

「空の中」は、集合地整体という
「個」を持たない知性とのコミニュケーションを描いた作品です。

「塩の街」は、中年男と若い女性のタドタドシイ交流の物語です。


メールや携帯電話で、簡単にコミニケーションが成立する時代に、
コミニケーションの本質を問いかける有川浩は
人気作家であると同時に、興味深い作家です。

そして、有川浩の、「理屈ぽさ」こそが、
ライトノベルの伝統であると、私は考えています。
経験の少なさを、想像によって補う為に、
ライトノベルの作家達は、頭の中のシミュレーション回路をフル稼動します。

実際に経験した事の無い「恋愛」をシミュレートし、
喧嘩などした事も無いのに「暑いバトル」をシミュレートし。
「友情」なんて、信じていないのに「厚い友情」をシミュレートします。

そしてそのシミュレートは、「読者に受ける」為に、
かなり客観的な視点を持っています。
この訓練が、有川浩の様な、分析的な視点を生むのかも知れません。


本日は夏休みの読書感想文が終わらないキミ達に、毎年恒例の大サービスです。


・・・・って、このブログ、高校生が読んでるの?と疑問に思われるでしょう。
実は「夏休みの読書感想文が終わらない」で検索して、
毎年、沢山の中学生、高校生が迷い込んで来ます。

「ありがとうございます」とか「助かったゼ」などのコメントを頂きます。




<追記>

■ ライトノベル作家を自称する有川浩 ■

多くの人が「有川浩」の作品をライトノベルとは思っていません。
デビュー作以外は、ハードカバーという装丁で出版されるなど、
出版社も「有川浩」を、大人の小説家として扱っています。

しかし、「有川浩」自身が、自分をライトノベルの作家と称しています。
これは、世間がライトノベルを低俗なジャンルと評することへの
彼女なりの抵抗なのだと思います。

一部のライトノベルは実際的に、一般小説の遙か先の世界に到達していますし、
その他の多くの作品も、多感な少年少女達に、夢や希望を与え続けています。

「坊ちゃん」や「人間失格」では、現代の若者に
同時代的な感動を与える事は出来ません。

かつては、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」こそが「ライトノベル」でした。
漢語や古典に対して、口語で書かれた近代小説は、
低俗なジャンルとして、見下される存在だったのです。

「人間失格」だって妻の不貞を盗み見る精神異常者のゴシップ小説とも言えます。
当時の人々は、漱石の軽やかな文体に新しい文化を感じとり、
太宰のダークな世界に、カタストロフィーを覚えたのです。

一昔前の夏休みの課題図書と言えば、
漱石や鴎外、太宰などが常連でした。
あるいは、妙に説教くさい若者向け小説も定番でした。

最近では、各出版社は夏の推薦図書として、
文庫化した、ライトノベルをそれとなく混ぜています。

私は「あさのあつこ」や「山田悠介」とライトノベルの作家に
それ程差があるとは思いません。
むしろ、発想の豊かさや、既存ジャンルに無いエネルギーを
ライトボベルの作家達に感じます。

「有川浩」が、自身をライトノベル作家と称するのは、
規格化された小説というジャンルよりも、
自由なライトノベルの風土の方が、自分に合っていると感じているのかも知れません。

一般小説においては、SFというだけで編集者はNGを出すでしょう。
「SFは誰も読まないんですよ。分かり難いから。
 先生、もっと若い女の子達がときめく様な恋愛物にして下さいよ・・・」
こんな編集者の声が聞こえてきそうです。

そんな出版業界にあって、今でもSFが元気なのがライトノベルです。
有川浩の自衛隊三部作、「潮の街」「空の中」「海の中」は明らかにハードSFです。
「図書館戦争」も、近未来の社会を描くという点で、典型的なSFです。

有川浩は、ライトノベル作家を自称する事で、
SFを書く権利を確保しているのかも知れません。