
■ 「女子大生」のお薦め ■
息子の保育園の同窓会で、大学の文芸部に入った女の子から、
「オジサン、『境界線上のホライゾン』って見てます?」って聞かれた。
既にその時点で、「ダメな大人」確定の私ですが、
流石に、上のイラストの様な「オタク臭満開」の作品は、
40後半のオジサには、見るのが辛いので、見ていません。
しかし「女子大生のお薦め」とあれば、見ない訳にはいかない。
たとえ、それが、オシメをしている頃から良く知っている女子大生でも・・・。
■ オタク向きと侮るべからず ■
一般に「オタク向け」として軽視されるアニメやラノベですが、
私の中では、「大人の鑑賞に耐えるもの」と、
「大人の鑑賞に堪えないもの」という無意識の線引きがありました。
ところが、『境界線上のホライゾン』は、そんな私のボーラーダインを
見事に粉砕して余りある作品でした。
「今時のオタク向け作品」と侮っていると、
私達、オジサンは、オタクのメインストリームから置いていかれる・・・。
そんな恐怖にも似た感情を覚えたのも確かです。
■ アニメはラノベは、映画や小説から、ゲームに進化した ■
私達の世代は、アニメは映画に準ずる「映像作品」。
ラノベも小説に準じる「文学作品」と捉えています。
ところが、『境界線上のホライゾン』を見て、私は見解を新たにしました。
今時の子供達は、アニメやラノベを「ゲーム」の延長線として捉えている
私達がアニメやラノベを評価する基準に、
映画やマジメな文学を基準に評価します。
ですから、映像のリズムであたり、間の取り方であたり、
あるいは、ストーリーの緻密さであったり、
感動を呼ぶ為の伏線の張り方を重視する傾向にあります。
ところが、『境界線上のホライゾン』を見る限り、
映画や文学といった基準では、評価する点はほとんどありません。
ところが、この作品は、大人の私が見ても、とても面白い。
何が面白いかと言えば、世界設定とその活用がゲーム的なのです。
■ ゲームをアニメ化したのでは無く、ラノベやアニメでゲームの世界を描く ■
従来、アニメとゲームの関係性は、
人気ゲームをアニメ化するというのがメインでした。
先日紹介した『Fate Stay Night』が良い例ですが、
ゲームの人気作品のメディア展開として、アニメが存在しました。
そこには、ゲームの世界観を、よりリアルに表現して、
ゲーム・ユーザーを喜ばそうという意識が働いています。
一方、アニメからゲームが派生する例も多々あります。
「涼宮ハルヒ」や「ワンピース」のゲームも存在しますが、
これは、「キャラクター商品」みたいな便乗商売で、
原作に影響を与える様な、ゲームなど多分存在しません。
(ゲームをプレイしないので分かりませんが)
ところあが、『境界線上のホライゾン』を見て感じるのは、
この作品が、ラノベやアニメの形をした「ゲームの中の世界」そのものだという事です。
■ 複雑な世界設定や、キャラクターの個性的な属性や、必殺技設定 ■
従来、ラノベやアニメの荒唐無稽な世界観の設定は、
SFやファンタジーと言った、文学の作法に則っていました。
ある物語を描くのに、世界観を最適化する為に、
科学技術が進歩した未来や、星々の果ての世界や、
魔法使いやドラゴンが当たり前の世界が設定されていました。
しかし、その目的は、あくでも、主人公の活躍や心の葛藤を、引き立てる為のものでした。
ところが『境界線上のホライゾン』での世界観の設定は、
徹底的に論理的に組み立てられており、
それは、ゲームのルールの役割を担っています。
■ 物語のリアリティーを放棄する一方で、ゲームのルールの厳格性を重視する ■
『境界線上のホライゾン』が特徴的なのは、
登場人物達の設定に全くリアリティーが無い事です。
主人公のクラスメイトを列挙しただけでも、眩暈がしてきます。
戦闘兵器ロボット
「ぷよぷよ」な軟体生物
謎のインド人
魔法少女
巫女
騎士
性転換少女
忍者
ところが、彼らが活躍する世界設定は非常に論理的で緻密に設定されており、
彼らの特殊能力も、なかなか凝った設定がされています。
原作者「川上稔」は、この作品の為に
A4で780ページもの設定資料を作ったとWikipediaに書かれています。
この作品の世界設定を、完全に把握しているのは多分原作者だけと思われますが、
ストーリーや個人や国同士の戦闘や、戦略は、
この設定に矛盾する事なく、論理的に展開して行きます。
これは、物語の進行が、ゲームのプレイの進行と同義である事を示します。
■ ゲームを魅力的にする複雑な世界設定 ■
『境界線上のホライゾン』の世界設定を簡単に記します。
人類は技術の進歩によって地上を離れ、
神として、地球を旅立ちます。
しかし、戦乱の結果、神達は再び地上に転落します。(技術の喪失?)
地上に舞い戻った神達は、地球の歴史を再現する事で、
再び神の座を取り戻そうとします。これが「歴史再現」です。
極東の末裔達は現実世界の日本に「神州」を築き、
その他の世界の末裔達は、「重奏世界」に仮想世界を築き、
それぞれ、歴史を再現してゆきます。
しかし、日本の南北朝時代まで歴史を再現した時点で、地脈の乱が生じます。
これにより、「重奏神州」が現実の「神州」に合一する事故が発生します。
その結果、現実の「神州」に虫食い的に「重奏神州」がはめ込まれた世界が誕生します。
この状態で「歴史再現」を続行する為に、
世界の国は、日本の戦国所領と合一する事で、
「歴史再現」を成立させようとします。
例えば、スペイン王が、日本の戦国大名を兼任するしながら、
西洋と日本の歴史を平行して再現して行きます。
それによる混乱を避ける為、「聖譜連盟」が暫定的に世界を統治していますが、
各国間の戦闘も続いています。
戦闘の母体となる集団は、「教導院」と呼ばれる各国の学校です。
「教導院」の生徒は、「生徒会」が国の政治と軍事を統括しています。
基本的に「生徒」に年齢制限はありませんが、
「極東」のみ、「生徒」に年齢制限があり、これがハンデーとなっています。
国家間の戦争は、「教導院」の生徒同士の抗争として実現します。
抗争の手法には色々ありますが、
役職者の戦闘を「相対戦」と称しており、ルールが厳密に決まっています。
「相対戦」は戦闘のみによって行われるのでは無く、
「討論」の形態が取られる場合も多く、相手を論破すれば勝利します。
全く、意味不明ですね。
ただ、これらのルールは非常に厳密、かつ論理的に構築されており、
そのルールにの則って、個人戦と、その延長としての国家間の抗争が繰り広げられます。
■ 魔法少女とリアルな戦闘ロボットの「相対戦」なんていう組み合わせも可能 ■
この世界はある意味「物理法則」を無視した所があります。
むしろ、「バーチャル空間」と考えた方が理解し易い。
ですから、登場人物もバーチャル空間における「アバター」と解釈すれば、
それが、魔法少女であっても、サイボーグであっても、軟体動物であっても
一向に構わないのです。
そして、魔法すらも、バーチャル空間においては、
バーチャル空間の物理法則の一つの運用形態として成立します。
だから、魔法少女とリアルな戦闘ロボットの「ガチ・バトル」も成立してしまいます。
ある意味、この作品の魅力は、この様な「異種格闘戦」にあるとも言えます。
多くのラノベやアニメの世界設定は、リアリティーを維持する為に
世界設定に多くの制約があり、世界観をある程度、統一しています。
例えば、魔法の世界と、ハードなSF設定は、なかなか両立しません。
「とある魔術師の禁書目録」や「Fait」シリーズは、
魔術の成立要件に科学的制約を課す事で、科学と魔術の境界を越えようとしていますが、
現実世界を舞台とする限り、リアリティーの壁が立ちはだかります。
一方、、『境界線上のホライゾン』の世界では、
最初に魔術による物理攻撃を可能という世界設定をしてしまえば、
ロボットに対する魔術攻撃も、そのルールを逸脱しなければ可能になります。
表層的リアリティーを放棄する事で、圧倒的な自由度を獲得したのです。
■ 「論戦」とて、「格闘」と同等に定期される ■
『境界線上のホライゾン』の最大の見所は、
「格闘」や「戦闘」では無く、
「討論」によるバトルです。
要は「論戦」、あるいは「ディベート」。
論理的に整合性が取れ、それにより相手を論破出来るのであれば、
たとえ高校生でも、一国の王に「相対戦」で勝利する事が出来ます。
「論戦」による「相対戦」は、「法律論争」や「禅問答」の様に、
「論理」と「非論理」の振幅を最大現に利用して行われます。
お互いの立場があまりにもかけ離れている場合は、
「議論」は平行緯線を脱する事が出来ません。
主人公はヒロインの関係は、一見「平行線」の様に見えます。
しかし、主人公は、平行線すらも交わるとされる「境界線」の彼方へと、
ヒロインの目を向けさせる事で、感情を持たないヒロインに希望を与えます。
これは、一種の「論理の飛躍」ですが、
この論理の飛躍こそが、この物語の魅力でもあります。
余波、論理的にガッチリと構築された世界を面白くしているのは、
「非論理」や「論理」の飛躍であり、
それは「情緒」と呼ぶに相応しいものであるかも知れません。
『境界線上のホライゾン』の作品としての面白さは、
ガッチリと「倫理構築」された世界に、
ノイズとして混入した「情緒」の作用がもたらす世界の変質なのかも知れません。
主人公はバカで無能ゆえに、「論理破綻」を無意識に駆使して、
「論理世界」の中で、最高の影響力を行使できる存在とも言えます。
「細かい事なんて、おれはちっとも分かんないけど、
面白ければ、いいじゃないか」
結構、こういうタイプのリーダーを日本人は好みます。
『境界線のホライゾン』を見ていると、
日本文化や日本社会の特質までもが明確になる様な気がします。
「オタク文化」の境界線の先に、
私達オヤジ世代の知らない地平が広がっているのかも知れません。
本日は鍛冶屋さんだって、絶対に敬遠するであろう、「超オタクアニメ」の紹介でした。
<追記>
TVアニメは2シーズン目に突入していますが、
はきいり言って、1シーズン目の方が圧倒的に面白いです。
2シーズン目は、キャラクター同士の戦闘に主眼が置かれ、
既に「ワンピース」と大差無い内容になってしまっています。
これでは、この作品の世界観は生きて来ません。