■ 日本よりも劣化が激しいアメリカの民主主義 ■
日本人の多くがアメリカは「民主主義の先進国」だと妄信しています。しかし、ブッシュJrの時代辺りから、アメリカの民主主義は明らかにポピュリズムに陥っており、その劣化具合は日本よりもヒドイ。
その結果が先の大統領選であり、トランプ大統領の誕生となるのですが、トランプ大統領の存在は反トランプ派にとっては良いガス抜きの材料となっており、彼らは表面的な大統領の言動に噛みつく事で不満を発散しているの過ぎません。
■ 大統領令で民主党政権時代の規制を廃止し続けるトランプ ■
トランプの派手なパフォーマンスにばかり注目が集まりますが、彼はその陰でオバマ政権時代の民主党が制定した数々の規制を、大統領令によって次々と破棄しています。
「温暖化条約」や「オバマケアー」ばかりが注目されますが、彼は金融市場や、海底油田開発や、石炭開発など、様々な規制緩和の大統領令に署名しまくっており、その数は数百と言われています。
■ 議会が機能していないのはアメリカも一緒 ■
アメリカの議会が機能していないのはオバマ政権時代も同様で、共和党が多数を占める議会で様々な法案が廃案になっています。一方で、オバマも大統領令を大量に発布しており、これは事実上、議会の無効化に等しい。
トランプはオバマの大統領令を大統領令で停止しているとも言えるので、既にアメリカにおいて議会は有名無実化しており、民主主義のパフォーマンスの場として国民の幻想を支えるだけの存在とも言えます。
■ 「空気」が支配する日本と、「祭り」で支配するアメリカ ■
良く「日本の民主主義は未成熟だ」と言われますが、日本の為政者は「国家社会主義」を隠れて支持する人が多く、これは官僚も同様だと私は妄想しています。「愚かな国民は良き指導者に飼われるべきだ」というのが、明治維新より続く日本型民主主義の本質でしょう。
但し、日本型民主主義の面白い所は、指導者達が奉仕する存在が「国柄」という何だか分からない「空気」である所です。「誰の為」という事では無く「日本の為」という理念が指導者達の中に確固として存在していると私は妄想しています。
これが感じられないのは小泉元首相と小池百合子氏ぐらいでは無いか?彼らはパフォーマーとしては優れていますが、その言動に理念の様な物、或いは彼らを縛る「空気」をあまり感じません。だから「空気によって結束した組織」を簡単に破壊する事が出来る。小池氏は小泉氏よりは空気を読む能力が高い様ですが、それを「破壊」に利用する傾向が強い。
これは悪口では無く、空気に支配された日本において改革を実現する為の大切な要素だと私は考えます。
一方、アメリカの民主主義は「祭り」によってコントロールされています。支配層は「アメリカを世界システムのコア」と捉えており、そこに「国柄」などという曖昧模糊とした共通幻想などは持ち合わせていません。
一方アメリカ国民は「自由」「正義」「民主主義」を神のごとく崇めていますが、これは指導者に押し付けられた教義である事に無自覚です。そして、アメリカの指導者は国民を導く為に「祭り」を利用しています。
「祭り」とは「民主主義のイベント=選挙戦」であり、アメリカの大統領選挙などはまさに国民の祭典です。アメリカ人と同じオフィスで仕事をしていると、大統領選の期間中はオフィスが落ち着きません。開票日などは仕事そっちのけで、ネットに釘付けになり、どこの州をどっちの党が取ったかで一喜一憂する姿が見られます。
この様にアメリカの民主主義は「祭り」によって支配されていますが、これは政治の本質が「祭りごと」なので何ら不思議な事ではありません。ただ「空気」という共通言語を持たないアメリカ人にとって「祭り」は極めて人工的に味付けされたエンタテーメントであるだけ。
■ ヨーロッパの民主主義は空気を読む ■
長い歴史の中で熟成された「空気」を国民が共有するという点に関してはヨーロッパも日本に近いかも知れません。
ヨーロッパも日本同様に官僚の力が強く、彼らの多くは元貴族の出身が多いと言われています。これは日本の高級官僚が天皇家を支えた一族の出身者が多いと噂される事と似ています。
往々にしてこれらの官僚達は大衆の民主主義に対して抑制的に働きます。行き過ぎた自由を規制し、多くの法律で国民を縛ります。
ヨーロッパの官僚達も、「国民に仕える」のでは無く、何か目に見えない「空気」に仕えている様な感じがします。だから、アメリカ程、政治がピーキーにブレる事無く、継続性を持って社会が徐々に、しかし確実に変化しています。
ただ、日本とヨーロッパの違いは国民の政治参加の意識でしょう。ヨーロッパの人々は空気に支配されながらも、確固とした支持的スタンスを持っています。これは左派も右派も同様で、ネオナチの様な愚昧な極右以外は、きちんと政治的な討論が出来る。
■ 空気を支配しようとする日本のマスコミとその限界 ■
日本人は「空気」を読む事には長けていますが、現在は確固とした政治的信条を持った人達は少ない。私達は個人の利益を最優先にしますが、一方で空気によってそれを微調節して日々を送っています。集団の利益を乱す者に対して日本の社会は厳しいからです。
日本のマスコミは「空気の形成」の為に利用され、選挙結果もこれに左右されますが、実は日本の政治は政権交代が起きても、ある程度の継続性を保っています。
継続性を担保しているのは官僚制度だと思いますが、彼らは時に政治家を利用し、あるいは時に利用されながらも、何だか良く分からない「空気」に仕える事を止めません。
小沢一郎や安倍政権は官僚人事権を握る事で、官僚機構を政治家が統制するシステムを目指しますが、森友加計問題での文科省の様に、官僚達は政治家に面従腹背しながら政治家を利用している節が在ります。
官僚組織はトカゲの尻尾切が出来るので、スキャンダルで消し去っられる政治家よりもシタタカでしぶとい。
■ 民主主義の本質は「衆愚政治」であるが、それを誰が利用するかが問題 ■
昔も今も民主主義の本質は衆愚政治ですが、実はそれを本当は誰が利用しているのかが大きな問題。
例えば、世界中を戦争に巻き込んで私腹を肥やす人物や組織であれば私達は本気でそれに抵抗する必要があります。
一方で、世界的な混乱を避けながら、少数の犠牲によって世界をより良く導こうとする者たちであるならば、それは必ずしも私達の損失にはなりません。
私は陰謀論者ですが、意外に「良い支配者」を妄想しながら世界を眺める事が多い。その方が、悪魔をイメージするよりも心穏やかで居られるので・・・。
だから、衆議院選挙を巡る混乱も、なるべく政治的ポジションを取らずに楽しもうと考えています。ただ、あまりにも見え透いたウソだけは看過できない。国民を「愚か」と為政者が考えた時、民主主義は悲惨な結果を生むと考えるから。
そして、たまには「正義」が行われる所も見てみたい。尤も、「正義」が出てくると大抵は悲惨な結果に終わる事も理解していますが・・・。「正義」を神と崇めるアメリカの民主主義が血と殺戮を生み出す様に。