『宝石の国』PV(ここをクリック)
■ 市川春子という現在最高のファンタジーの描き手 ■
まさか市川春子の『宝石の国』がアニメになるなんて予想もしていなかった。
そもそも、市川春子が商業誌向けの作品を連載「出来る」と考えていなかった私は、アフタヌーンで連載されている『宝石の国』を買う事すらためらっていました。
『虫と歌』 市川春子 講談社
『25時のバカンス』 市川春子 講談社
私が市川春子を知ったのは2011年に出版された『25時のバカンス』からです。確か帯に「萩尾望都・絶賛!!」と書かれていたと記憶しています。しかし購入の決め手は、浪打際でしどけない表情で横たわる黒ビキニの妙な艶めかしさ。一瞬で悩殺されました。
ところが、中身はファンタジー色の強い「不思議なSF]の短編集で、全然エッチな内容では在りません。一瞬がっかりしましたが、2ページもめくるうちに、独特の世界感に溺れそうになった事を覚えています。現実がフッっと遠のく感じがした・・・。
表題の『25時のバカンス』は、貝に寄生された女性研究者とその弟の話。と言っても科学的な描写は「貝に寄生され共生する身体」という突拍子も無い設定を補完する目的で利用され、彼女の目的は「貝に寄生さえたグロテスクな人体」と「黒ビキニのしなやかな身体」のコントラストを描く事にあると思われます。
「美しい肉体が貝に侵食される様」は、まさに「美しい女性の体が腐敗していく様」でもあり、「身体の崩壊と、それを補完する何か」を描く事が、彼女の作品のテーマとなっています。
『月の葬式』では地球に住む月の王子の体表が、ボタンの様に円形にボロボロと剥がれ落ちて、内蔵がその穴から見える・・・そんな話。これにもSF的な設定がされていて、王子の体表の組織は月の砂などと同じ無機物で出来ていて、地球の環境下ではボロボロと剥がれ落ちる・・・と説明されています。
『虫の詩』の冒頭の『星の恋人』では、死んだ夫の子供を作る為の、夫の体組織からクローンを作りますが、その補完に用いられたのが植物の細胞。生まれた子は、リンゴを切ろうとして指を切り落としますが、その指を挿し木すると、もう一人人間が作れる・・・そんな話。
この様に、市川春子の作品は、「崩壊する身体」と「身体を補完する何か」で構成されますが、「何か」が貝であったり、無機物であったり、植物の細胞であったります。
そして崩壊と補完の微妙な関係性の中から、摩訶不思議なお話が生まれるのです。
■ SFの描き手としのて市川春子 ■
市川春子の作品のSF設定は、あり得ない設定に現実味を付加する「おまじない」として機能しています。
これは20世紀最高のSF作家の一人であるJ・G・バラードの科学的設定に似ています。『結晶世界』では、アフリカの奥地で全ての物が結晶化するという現象が起こります。これ、結晶化の原因は書かれていないのですが、「結晶」という科学的事象が物語の全体を硬質に支えています。
『乾燥世界』では雨が全く降らなくなった後の地球の生活が描かれますが、雨が降らなくなった原因は、「海の表面を極薄い膜が覆い尽くして水が蒸発しなくなった・・」とさらりと1行で説明されます。
市川春子のSF設定もほとんど同質で、「不思議な世界」を成り立たせる為の「おまじない」的な役割を担っています。
■ 『結晶世界』と『宝石の国』 ■
私は市川春子はJ・G・バラードの大ファンだと妄想していますが、バラードの『結晶世界』と市川春子の『宝石の国』は似ている様で実は真逆の作品。
『結晶世界』では生物は結晶化により無機物と化し、生命を失います。一方『宝石の国』では度重なる流星の落下で絶滅寸前にまで追い込まれた生命は、微生物となり無機物の結晶を結合させて人間の姿を形作ります。「結晶は生き物」なのです。
■ 「崩壊する身体」と「結合する無機物」 ■
『宝石の国』でも、「崩壊する身体」と「補完する何か」というテーマが繰り返されます。
宝石故に戦闘によって身体は何度でもバラバラになりますが、それを結合するバクテリアによって無機物の体は、砕け散った欠片を集めれば何度でも再生します。ただ、失われた欠片の分は記憶が失われるだけ。こうして宝石達は300余年という歳月を生き続けています。
■ 荒唐無稽な内容を、商業誌で連載される作品に仕上げたアフタヌーンの編集者は凄い ■
初期の作品の「不思議なSFファンタジー」の描き手としの市川春子は、一部の漫画ファンに熱狂的に支持されますが、一般性を持っていたかと言えば答えはNO。本来、商業誌に掲載される様な作品では在りません。
だから私は『宝石の国』の第一巻が書店に並んだ時、怖くて買えませんせんでした。彼女独特の世界感が薄まってしまっている可能性を憂慮したのです。それにバトル物と市川春子の作風どうしても結び付きませんでした。
しかし、TVアニメを観て、それが杞憂であった事にホットしました。「バトル=身体の欠損」として市川春子のテーマは徹底されていたのです。バラバラに何度も砕け散ります。
特に序盤、戦闘に巻き込まれただけで砕け散った主人公のフォスフォフィライトが、死体を入れる黒い袋に回収されながらも、その中で暴れるシーンなんてシュールを通り越して、市川節の全開!!
■ CGアニメでしか表現出来なかった透明感 ■
アニメ版はCGを使って製作されていますが、宝石で出来ている頭髪の透明感や、肌の透明感を表現するのにCGという選択は最適です。
一方でCGアニメで多用されるモーションキャプチャー的なヌルヌルという動きはあまり多くありません。むしろ手描アニメの様な、動きを省略する事によってスピード感を作り出す演出がされています。(もしかすると、一部は手書きの作画じゃないかな・・CG臭さが無いんだよね・・・)
そして、『進撃の巨人』のアニメ同様に、戦闘シーンでの視点移動が画面にダイナミックな躍動感を与えています。ここら辺は、CGアニメならではでしょう。手描きでも出来ない事は有りませんが、手間を考えたらCGは圧倒的に省力化できます。ただ視点の移動はセンスを必要とします。手描きでもセンスのある作画家でなければ耐えられないシーンですが、CGでも同様に、どう動かして、どう寄るか、あるいは引くか・・というのはセンスの領域。
監督はサンライズでCGを担当していた京極尚彦。「CGを動かす」という意味においてベストな人選だと思います。
『宝石の国』より
『宝石の国』より
CGアニメという事で動きのあるシーンに目が奪われがちですが、極端なロングショットや、極端な位置に人物を配した構図構図など、映像への拘りがビンビンと伝わって来ます。
■ 『宝石の国』のアニメは芸術アニメでありながら商業作品として面白い ■
アニメ版『宝石の国』のクオリティーは「芸術アニメ」の域に達していますが、一方で演出は商業作品として十分に面白い。とにかく主人公のフォスフォフィライトが可愛いのですが、その他の人物もキャラ立ちが良い。音楽も素晴らしい。
多分、この作品は、世界のアニメ―ションの現在の到達点の一つです。
CGアニメと言えばピクサーやディズニー作品の様に「縫い包みの様な3Gらしい造形がヌルヌル動く」というイメージが浮かびますが、日本のアニメキャラはあくまでも2次元の造形をしているので、CGと相性が悪い印象でした。
しかし、この作品は、あくまでも「手描きアニメの2次元性」を残しながら、そのさらなる可能性を追求しています。多分、欧米のアニメ作家達が驚愕の思いでこの作品を観ている事でしょう。
はっきり言います。この作品は必ずや日本のアニメの次なる時代を開くエポックになるはずです!!
この作品を観ないのは、人生の無駄遣い・・・・と断言しよう!!
最後に、一般的な「萌え系」とはかけ離れた美意識の地平に存在する原作を、普通のオタクでも楽しめる作品に「コンパイル」した京極監督の手腕に拍手を送りたい。それに大きく貢献している声優陣の素晴らしい演技に感謝を!!
『宝石の国』OP
『ゼーガペイン』OP
ところで、『宝石の国』のOPを観ていると、どうしてもこの作品のOPを思い出してしまいます。それは『ゼーガペイン』。サンライズが本格的にCGを採用した最初の作品だと思いますが、サンライズ出身の京極監督がそこら辺を意識したかどうかは・・・?