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経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

良く分からないけれど「何だか凄い」事だけが分かる・・・『京騒戯画』

2013-11-10 05:08:00 | アニメ
 



■ 「倍返しだ!」とは対極の世界 ■

最近の風潮は「分かり易い事」だと常々感じています。

かつてミニシアター系の映画の流行った頃には、「分かり難い事」が価値を持っていました。ゴダールはもとより、デレク・ジャーマンやタルコスフキーなどヨーロッパ系の難解な作品でも映画館は賑わっていました。漫画でも「ガロ」に掲載される様な作家が評価されていました。それが何時の頃からか、分かり易い物しかヒットしない時代になってしまいました。

バブル崩壊以降、日々、圧迫感に苛まれる私達は、お金を払ってまで「悩む」事はしたくはありません。出来ればスカッとストレスを解消したい。だから、1800円もお金を払ったあげくに、なんだか悶々とした気分にさせられるミニシアター系の映画より、ハリウッドの大作を見た方が有意義に感じます。

私がアニメを見るのも、分かり易くて気持が良いからに他なりません。

ただ、実写ドラマは見るに耐えません。ナイーヴさに欠けるのです。見ていて恥ずかしくなる様な表現者の未熟さに出会うことが少ないのです。それに比べると、アニメは大人に成りきれない人達の表現だけに、たとえ宮崎駿の様な老人の作品でも、そこには何かしらの、「はっとさせられる」瞬間がありす。これを言葉にするのは難しいのですが、「倍返しだ!」みたいな露骨な表現を嫌悪するのがアニメーションやミニシアター系の映画とも言えます。

■ 「何だか分からないけど凄い」と評判の『京騒戯画』■

今期アニメの『京騒戯画』、「何だか分からないけど凄い」とアニメファンに評価されています。

これは近年の「分かり易い事」にしか反応できない風潮に真っ向から対抗しています。このアニメを見ている若い方達自身、普段は「分かり易い」ものを評価しているはずなのに、何故この作品は分かり難くても評価されるのでしょうか?

■ 「何だか分からない」はストーリーテーリングの問題 ■

映像表現で分かり易い作品を評して「ストーリー・テーリングが上手い」と表現される事が多い。これは物語の筋道がスッキリと整理されていて、自然に内容が理解出来る事と言い換える事が出来ます。

ある限られた人達に起きる出来事を、時系列に描けば視聴者は混乱しません。ただ、これではドキュメンタリーの様になってしまって、面白さに欠けます。ですから、小説や映像作品の多くは、時間を入れ替えたり、視点を入れ替えたり、あるいは、重要なシーンをあえて隠す事で、「引っ掛かり」を作ります。これが、物語への興味を搔きたてるのです。

一方で、この様な「撹乱」は上手に処理をしなければ、物語の自然な流れを阻害します。若い作家は何か面白い表現をしようとするあまり、この自然な流れを損なってしまい、自己中心的な表現に陥ります。

『京騒戯画』もこの傾向が強く、時系列を複雑化し、あえて思わせぶりな物言いをする事で、作品としての流れは非常に悪い。視聴者はこれを「分かり難い」あるいは「何だか分からない」と評価します。普通の作品ならば、こんな作風は視聴者に拒絶されるはずです。

ところが、この作品に関しては「何だか分からないけど凄い」という評価になっています。

注目すべきは「凄い」の部分です。「何だか分からない」なのはストーリーテーリングが下手なだけです。

■ 「凄い」のは何か? ■

問題は多くの人の感じる「凄い」の正体です。

この作品は、原色が氾濫する漫画的表現と、現実的表現が入り乱れています。一般的には、漫画的表現から現実的表現に変った時に、表現に深みを持たせて「凄い」という錯覚を抱かせるのですが、この作品に関しては漫画的表現の中にも「凄い」シーンが連発されます。

それが何かと言えば、「感情が明確な形を取る前の曖昧さ」や「途中で投げ出された思考」が、明確に映像から伝わる事だと私は感じています。

様は「、宙ぶらりんで、ま、いいか・・・」みたいな感情を映像が上手に表現しています。ですから視聴者も、曖昧模糊としたフンワリとした状態でこの作品を鑑賞します。

こういう心のガードが緩んだ瞬間に、印象的な映像が次から次に提示されるので、私たちは、それが何かと理解する前に、心にそのシーンがダイレクトに飛び込んで来ます。

それらのシーンは、映画的であったり、漫画的であったり、次々に変化して行くので、私達の心は全く予期しないシーンに構える事が出来ません。

■ 「完成」の対極にある「感性」 ■

先日、評論した『のんのんびより』は「完成」された表現力を感じます。物語の構成も映像も綿密で、水も漏らさぬ完成度を感じます。

一方で『京騒戯画』は「完成」などとは対極の表現です。不確かで不安定で、一瞬にして様々に変化してしまいます。しかし、それらの映像は非常に高い「感性」で繋ぎ合わされており、論理的には予測不可能な効果を生み出しています。

心の深層にダイレクトに働き掛けてくるのです。

『キルラキル』も同じ効果を狙っていますが、『京騒戯画』の表現力の高さは、次元を違えています。

■ セリフと画面の意図的なズレの生み出すもの ■

『京騒戯画』の「感性」をもう少し分析するならば、その方法論は「禅問答的ズレ」とも言えます。天真爛漫に振舞うコトの言動が、意外に奥深いという様な設定はアニメではありがちですが、それだけでは無くて、色々な物が微妙にズレているのです。

会話のシーンの描き訳なども意図的な様です。



普通の会話のやり取りのシーンでは、カメラは話し手を写しています。




ところが、お互いに意思を探り合う様な会話をする時は、カメラは聞き手の表情を写していたり、あるいは引いたアングルで話し手の表情を映しません。上の映像などは、何と屋外の俯瞰構図です。



会話による心の探り合いは、真剣な会話のやり取りよりも、何気ない会話で交わされる場合が多い様です。上のバイクのシーンは、バイクが固定されて背景がドンドン流れて行くという、映像的にもワクワクするシーンの中で交わされますが、一見意味の無い会話が、二人の距離を縮めてゆく様が見事に表現されています。



その直後の映像は、一転して躍動感に溢れるバイクから地面を見た主観視点から、空にパンアップした後に、今度は引いた構図で見上げ気味に土手の上を失踪するバイクを写します。このシーンの連続で、二人の心が一体になって行く様が見事に表現されています。ロード・ムービーに出てきそうなシーンです。



そしてその後の一面のススキ野のシーン。二人の距離は離れていますが、その心は既にガッチリと結び合っています。今まで、異世界からの闖入者でしかなかったコトと明恵の心が結び付き、そしてコトがこの世に現れた意味を明恵が悟ったシーンを、美しい風景によって語らせています。

この間、街の雑踏や自然の音が背景を埋め、さらにはディズニー映画のアラン・メンケンの様な贅沢な音楽が、バラバラになりそうなそれぞれのシーンを強烈に繋ぎとめています。

それぞれのシーンや要素は、微妙にズレているのですが、それがトータルでは「カチリ」と何かに収束して行く様はスリリングです。

これを何となく「感覚的」に作り出している感じがするのです。(ここがスゴイ)





「見て感じるしか無い」としか言いようの無い作品ですが、つくずく日本のアニメ業界は凄いなと思わせずには居られません。



かつて、ゴダールやトリュフォー放っていたオーラを、28歳の女性アニメ監督が纏っています

株式市場の正常化?・・・空売り規制の緩和

2013-11-08 08:15:00 | 時事/金融危機
 

■ 空売り規制の緩和は株式市場の正常化 ■

金融庁は5日から、株式市場の空売り規制を緩和しました。

空売りとは、手元に持っていない株を証券会社から借り手売る取引です。何故これで儲かるかと言えば、売った銘柄の株価が下落した場合、下がった株価で株を買い戻す事で利鞘が稼げるのです。当然、証券会社には株の借り賃を払いますので、それなりの下落幅が無ければ利益は出ません。

ヘッジファンドなどは、空売りを取引に組み込む事で、株価上昇局面だけでなく、下落局面でも利益が出る投資をしています。リスクをヘッジしているのです。

リーマンショック後、世界的に株式市場が値下がりしたので、各国は株価下落を加速させるから売りを一部規制しました。アメリカなども金融株の空売りを規制しました。

日本では51単元以上の信用新規売り注文を、直近公表価格以下(成行注文も含む)で発注することは、金融商品取引法施行令により禁止されていました。

1) 株価上昇時は51単元以上のと取引でも直近公表価格以下での売り注文が可能になる
2) 株価下落時は、51単元以上の取引では直近公表株価以下及び同額での売り注文は
   従来通り禁止。
3) 当日基準価格から10%以上低い価格で約定が発生した場合、トリガー抵触となり、
   従来通りの空売り規制が適用される。

こんな感じの緩和内容となっています。
相場が上昇する局面での、51単元以上の空売りが解禁されたという事になります。

「空売り規制解禁」と聞いて、海外のヘッジファンドに売り浴びせられて日経平均が暴落し易くなるのでは?と心配しましたが、一応歯止めは掛かっている様です。

■ 株価が一進一退する局面で利益を拡大するヘッジファンド ■

空売り規制緩和を受けて、東証の取引が活発化したとの報道もありました。29%が空売りだとか・・。

最近の株価は一進一退を繰り返していますから、株価上昇局面で空売りを仕込んで、下落局面でしっかり儲けを確保出来ます。昨年11月以降の上昇一直線の相場では、空売りを仕掛けたところで、買い圧力に負けてしまいますから、相場が安定したので空売りで利益を出し易い状況になったとも言えます。

ここからは、ヘッジファンドお得意の、「上げたり、下げたり」という誘いで、個人投資家から利益を上手く抜いて行くのでしょう。一方で、日本の個人投資家達もかなり慎重になっているので、おいそれとは誘いに乗らない気もします。

意外と株価下落局面で買い支えに入る年金資金や日銀マネーが狙われるのかも知れません。

■ 世界的な景気減速で円高圧力が高まっている ■

昨年11月からの日本株の上昇は、円安に助けられてきました。

ところが、世界的な景気減速が顕著になったので、ECBが金利を引き下げています。内外金利差が縮小するので、円高になる可能性が高くなります。

円高局面では日本株は売られ易くなるので、ダウなどが劇上げしない限り、日本株はズルズルと値を下げ易くなるというのが市場の大方の見方でしょう。

ユニクロ、マクドナルド、ワタミなどの企業業績も振るいません。アベノミクスで浮かれたのは、塩漬け株が値上がりした富裕層だけで、一般的な人達は、むしろ物価上昇の影響で生活が苦しくなり始めています。(公共事業関係の業者は儲かっていますが・・・)

■ 世界的に閉塞感が高まって行くでしょう ■

Twitterの上場がニュースになっていますが、Facebook同様に、上場後直ぐに株価は下落するでしょう。

ダウは緩和マネーの流入で、鉄火場となっていますが、実体経済の悪化をどこまで無視し続けられるのか?既に、金融市場自体、実体経済とのリンクが相当緩くなってきています。
アメリカの雇用統計や経済統計に反応している様な報道のされ方をしていますが、景気悪化の兆候を好感するという滅茶苦茶な状態。QE3のテーパリングの見通しにしか反応していません。

何だか、非常に末期的というか、閉塞的状況になっているので、しばらくはこの状態が続いた後に歪みが何処かで噴出しそうな感じがします。

メディアも市場関係者も、肌身では不穏な空気を感じているのでしょうが、彼らはそれを無視するしかありません。一部の賢い人達が早々に危機対応を済ませているのでしょうか?


リーマンショックから5年以上経過し、世界は一見平穏に見えますが、大きな歪みがエネルギーを蓄えています。経済危機は地震と同様に、いつ、何処で発生するか分かりません。狼少年と呼ばれようと、私は「気をつけて!!」といい続けるだけです。

市場は短期に反応しますが、経済の大きな潮流は変える事は出来ません。

JPモルガンチェース銀行が海外送金中止?!・・・良く分からない通知

2013-11-06 18:55:00 | 時事/金融危機
 

■ 11月17日以降、5万ドル以上現金の引き出しに高額な手数料? ■

JPモルガンチェース銀行に口座を持っている中小事業者に、11月17日以降、5万ドル以上の現金引き出しにには、1ドル増える毎に手数料が掛かるという通知が送付されているようです。

さらには、海外送金も出来なくなるとの通知も・・・。

日本もメガバンクがキャッシュカードによる1日の引出金額限度額を300万円から50万円に引き下げています。振り込め詐欺の予防という名目になっていますが・・・。


いったい、何が起きているのか・・・・。


何かと不祥事の多いJPモルガン、預金流失を防ぐ処置なのでしょうか・・・。でも、こんな規制をすれば、預金者は他の銀行に逃げて行きますよね。

全く???な出来事です。


JPモルガンは欧州銀行間取引金利(EURIBOR)の不正操作疑惑で罰金、MBSの不正取引でも1兆円を越える罰金、ロンドンの鯨事件でも確か罰金・・。キャッシュフローが厳しくなっているのでしょうか?


ロックフェラーの銀行というのもちょっと気になる所。
いずれにしても、ペーパー金やCDSなどJPモルガンは金融危機が起きたら色々とヤバイ。あるいは、ここが次の危機の引き金を引くのか・・・?


プチ聖地巡礼・・・『言の葉の庭』

2013-11-06 08:48:00 | カメラ・写真
 

仕事用のコンデジが夏に雨に濡れてから調子が悪いので、思い切って買い替えました。最近のコンデジは色々種類が多いのですが、OM-Dと操作性が似ている方が使い易いので、OLYMPUAのXZ-10にしました。

小型の高性能コンデジは、CANONのS-120など実力機揃いなのですが、XZ-10の魅力は望遠側のF値が2.8と明るい点。CCDが小型なので、ボケは期待できませんが、室内で多少暗くても望遠側が使えるのは嬉しい。通常はフラッシュを使わないと被写体ブレしてしまうシーンでも、ノンフラッシュ撮影が出来そうです。

新宿で購入したので、試し撮りをしに新宿御苑に行って来ました。目的は「プチ聖地巡礼・言の葉の庭」編。





そう、主人公の少年とユキノ先生が出会った東屋を探しに行ってみます。




平日の午後ですが、菊の花が展示されているので人出は結構ありました。
長居は出来ないので、新宿門から千駄ヶ谷門に抜けるのに200円払う感じです。





菊の花が、園内の所々に展示されています。ちょっと望遠側のボケ味を確認してみます。コンデジにしてはそこそこボケるのではないでしょうか。



逆光でフレアーとゴーストをチェックしてみます。許容範囲ではないでしょうか。影もそこそこに締まっています。





これが目的の東屋。ちょっと分かり難い所にありますが、旧御涼亭の近くにあります。ユキノ先生は居るハズも無く、オヤジがスマホをいじっていました。・・・ずっと。




こんな景色を二人は眺めていたのでしょうか?雨で無いのが残念です。ノーマルのカラーバランスはちょっと地味なので、ビビットで撮ってみました。



これが旧御涼亭。皇太子(後の昭和天皇)御成婚記念として台湾在住邦人の有志から贈られたものだそうです。



窓枠も中国建築の意匠です。




今回一番楽しみにしていたのが「組み写真(Photo Story)」をその場で作る機能。
上の写真は3枚の写真をそれぞれ撮って組み合わせています。これは黒枠ですが、白枠なども選べます。



これは横二枚の組み合わせ。ズームイン・アウトと呼称されていあす。



これはファンフレーム。これも楽しい。

オリンパスのカメラは早い時期からアートフィルターを搭載して、フィルムカメラには出来ない、デジカメならではの楽しさを提唱していましたが、この「組み写真機能(Photo Story)」は本当に楽しい。

確かに素材を撮った後、家で画像ソフトで編集できるのですが、やはり、現場で撮りながら編集した方が、最適な素材が選べます。まさに、女子カメラにはうってつけの機能。




又も逆光にチャレンジ。



男子中学生が和んでいました。修学旅行でしょうか・・・。カラーバランスがビビットだと結構コッテリした色ノリですが、ブログの写真にはこの位が適当かも。



映画の中で何度か出て来る坂道。千駄ヶ谷の駅へと続きます。



広角側で歪曲をチェック。
35mm換算で26mmスタートと、広角側が控えめなので、樽型収差はほとんど目立ちません。最近は電子的に収差補正するので、レンズの性能とも言い切れませんが・・。




このカメラ、小さいのだけれどジーンのポケットに入れるには、少し厚みが大きすぎます。それとグリップ感があまり良く無くて、滑って落としそう。

そこで、シリコンラバーのカバーを装着してみましたが、背面のダイヤルが回し難くなります。娘が修学旅行に持っていく事を考えると、ストラップ付のケースは必須だと判断しました。

私が仕事で使う時も、両手が塞がっている時は、ストラップ付は便利。

シリコンカバーは自転車で出かける時に装着する事にします。



以上、説明書も読まずに使える、OM-Dに操作が似ているから。
レンズの付け根の操作リングに絞り操作を割り当てて、絞り優先オートにすると、往年のカメラを操作している感じで、とてもしっくりします。

「露出補正ありき」というオリンパスのポリシーもしっかり継承されていて、私としては大満足なカメラでした。究極の「お散歩カメラ」です。

なんだかOM-Dの出番が減りそう。

新い都市の魅力・・・シンボルとしての建築①

2013-11-05 07:26:00 | 時事/金融危機
 

昨日アップした記事は1時間くらいで書きなぐったので、「建築の歴史と流行」編と、「新国立競技場を巡る論争編」に分けてまとめたいと思います。(自分の勉強も兼ねて)




新国立競技場デザイン案  ザハ・ハディド

■ アンビルトの女王 ■

新国立競技場のデザインと建築を巡って、いろいろな論争が巻き起こっています。

国際コンペで選ばれたのは、イラク出身のイギリスの著名建築家、ザハ・ハディド氏のデザイン。彼女は建築のノーベル賞と呼ばれる プリツカー賞を女性で始めて受賞しています。

一方で彼女は「アンビルとの女王」と呼ばれ、かつては実現した建築の少ない事で名を馳せました。「アンビルト」とは「実際には建たない」という意味で、デザインや設計コンセプトは先鋭的であるのに対して、技術的に実現性が乏しかったり、実用性とコストのバランスが取れない為に実際に建設される事の無い設計の事を指す言葉です。

ハディド氏は、「脱構築主義」と呼ばれる一派に属しています。「脱構築主義」は「ポストモダン」と総称される建築運動の一つです。

■ モダニズムへの反省としての人間性への回帰=ポストモダン ■

現代建築は「合理性を優先し、デザイはその機能性の表れである」というモダニズムの思想に支えられてきました。その結果、「無機質で直線的」な建築が都市を埋め尽くします。「コンクリートジャングル」などと揶揄される様に、モダニズムにおいて人間的な曖昧さや、近代以前の非効率は切り捨てられてきいました。

社会が成熟するに従って、モダニズムに対する反動が生まれてきました。
それが「ポストモダン」です。これは様々な芸術や社会のジャンルで並行して発生し、影響を及ぼし合いましたが、建築の分野では1980年代から台頭します。

「合理性」をあえて無視する事で、「モダニズムが忘れてきてしまった物」を取り戻そうとしたのです。

■ 初期のポストモダンの建築 ■

建築における初期のポストモダンは「形態の回復」からスタートします。モダンにズムの建築物は構造と経済的合理性から直線で構成された「箱」の形態をしています。

その単なる「箱」に、古代からの建築の様式を折衷的に取り入れる事で、建築がかつて持っていた「象徴性」や「神性」や「建築の歴史」そのものを近代建築に取り込もうとしたのです。


隈研吾 M2ビル 1991年

上の写真は新国立美術館を設計した隈研吾氏が設計したM2ビルですが、これが良くも悪くも当時のポストモンンの特徴を良く現しています。現代建築は建築技術の進歩によって、構造的制約から自由になってきました。近代建築は構造が建物のデザインを決める需要な要素でしたが、現代建築はそれから解き放たれる事で、「形態」をある程度自由にデザインする事が可能になりました。

M2ビルでは古代ギリリシャ建築の「円柱」を「モニュメンタル」に中央に配し、その周囲をアーチを特徴とす中世の建築様式や、ガラスを素材とする現代の建築様式で取り囲むことによて、「建築の歴史」を一つの建物で表現しようとしています。

この建築に関しては当時から賛否両論あって、「表現が直接的過ぎる」という否定的な意見も多かったと思います。マツダのショールームであった事から、「目立つ事」も大事な要素だったのですが、一時隆盛を極めた「アカラサマなポストモダン」は、その後徐々に勢いを失って行きます。建築コストの合理性に劣るこれらの建築は、バブルの遺産とも言えます。

■ モダンの延長線上にあるポストモダン ■



菊竹清訓 江戸東京博物館 1993年 


菊竹清訓 ソフィテル東京 1994年 (現存せず)

上の写真は故・菊竹清訓氏が設計した江戸東京博物館とソフィテル東京ホテルです。直線的なデザインなので、隈研吾氏のデザインと大分イメージが違いますが、これも代表的なポストモダンの建築です。

菊竹氏は1928年生まれで、黒川紀章氏らと同時代の人ですので、隈研吾氏らよりは2世代くらい前の建築家になります。丹下建造氏らもこの時代の大家です。彼らも若い頃にモダニズムの建築に対する反抗から注目される様になった建築家達ですが、その「反抗」は、1980年代のポストモダンの様な表層的なものでは無く、「モダン建築のあり方に対する根源的な反抗」でした。

例えば、「巨大な構造物である建築と重力との葛藤」であったり、「積層に対するモジュールとしての建築単位の変換」であったり、「古典的な建築とモダンデザインの対比」であったりします。

菊竹氏の上の2作品は、当時、若い建築家からは不評だったと記憶しておりますが、私は磯崎新氏らの「言葉で説明しなければ分からない」ポストモダンへのアンチテーゼとして、非常に直観的で素晴しい作品であたと思っています。日本建築をモチーフに、をれを現代建築の用語で表現し直しているのですが、やはり、「現代の建築技術だからこそ出来る」という事を非常に重要視している建築です。これらの作品に関しては、建築の構造がデザインにダイレクトに影響を与えており、その意味において、その後の構造設計の飛躍的進歩によって発生した、「構造で建築をデザインする」挑戦にある意味において近いものを感じます。(手分、ディテールの処理がシンプルなので、当時は磯崎氏らに比べ、建築界では人気が無かったのでしょうが、伊東豊雄氏や妹島氏らが、菊竹氏や丹下氏の思想をかなり洗練された形で継承したと私は考えています。)

現在日本を代表する伊東豊雄氏は1960年代に菊竹氏の事務所で働いていましたが、彼は菊竹氏を「恐らくこのような狂気を秘めた建築家が今後あらわれることはないだろう」と高く評価していた様です。


■ 「言語」や「哲学」としての建築 ■

日本のポストモダンの建築家で最も有名なのは磯崎新氏です。
磯崎氏は1931年の生まれですから上で紹介した菊竹氏と同年代です。
しかし、彼の建築理論は、同年代の建築家達とは全く異質です。


磯崎新 北九州市美術館   1974年

北九州市美術館は磯崎氏の初期の傑作です。二本の直方体が大砲の様に突き出す姿はインパクトがありますが、建物はキューブの組み合わせで出来ています。近代建築の要素を徹底的にシンプル化したキューブという形状を再構築する事で、新たな表現を生み出す方法は、「解体と再構築」というポストモンダの手法そのものと言えます。


磯崎新   御茶ノ水スクエアー  1987年

上の写真は東京御茶ノ水に「旧主婦の友社(御茶ノ水スクエアー)」ですが、初期の「構成主義的」な手法から、「古典建築のイメージ」を上手に取り入れて建築的な豊かさが増しています。

低層はW.ヴォーリズの設計による旧館のファサードを保存してたてられた文化複合施設で、高層は、スクエアーやキューブとうモダンな造形言語を用いて、過去の建築を単純化して表現しています。隈氏のM2ビルが明らかに「異質」な存在として街の景観から浮き上がっているのに対して、御茶ノ水スクエアーは低層も高層も町並みに自然に溶け込んでいます。それでいながら建築としての主張は非常に強いものを感じます。


磯崎新  岡山西警察署   1996年

派手な折衷主義的なポストモダンはバブル期が沢山出現しますが、バブル後もコンスタントにプロジェクトが実現した建築家は磯崎氏でした。上の岡山西警察署は、ギリシャ建築の円柱をモチーフにしていますが、それを非常に現代的なミニマリズムに上手く昇華させています。もうセンスとしか言いようがありません。


磯崎新 グランシップ(静岡県舞台芸術センター) 1997年

一方でこの時代から、磯崎氏の作品には曲線が増えて来ます。グランシップは新幹線で静岡駅の手前に突然現れる巨大な建造物ですが、まさに船を思わせる形をしています。劇場ホールを含む様々な複合施設で、まさに「箱物」の王者の様な施設です。

ところで、私はこの頃から磯崎氏の建築が理解し難い物に変わっていった様に思われます。初期の構成的な面白さや、80年代のセンスの良い折衷主義や古典要素の現代的アレンジは分かり易く、見ていても飽きません。しかし、グランシップは分からない・・。「何で船なの?」。そこは、磯崎氏の大量の著作を読めという事なのかも知れませんが、説明しなければ分からない建築というのも・・・。






局面を多用し始めた磯崎氏の建築を見ると、無意識にこんなんのが脳裏に浮かんでしまいます。私の勝手な想像では、この時代の磯崎氏は「形態」とか「建築様式」からさらに踏み込んで、建築の持つ「土着的力」や「一種のアミニズム」の様な効果に着目していたのかも知れません。それこそ、山をくり抜いても建築として成り立ちますし・・・・。


磯崎新  富山県立山博物館  1991年


それが富山県立博物館の様な比較的小規模な建築では上手く機能していたと思うのですが、「グランシップ」や「なら100年会館」の様な大きな建造物では、何だか良く分からない塊になってしまう様に感じます。多分、土着的な建築のスケールを越えてしまうので、「山」みたいに見えてしまう事が原因なのかも知れません。

■ ポストモダンの退潮と新しい建築 ■

何れににして、この頃から公共事業の削減の影響が顕著になり、磯崎氏の作品も国内で建つ事な無くなって行きます。今では海外での活躍が目立つ様になりました。


一方で、技術の進歩は、モダンニズムにも大きな影響を及ぼし、建築の機械的、構造的美学を追及していたモダニズムが、ポストモダンを吸収する形で著しい進化を始めます。この建築の新しいムーブメントの前に旧来のモダニズムは退潮して行きます。


一方で、建築のテクノロジーの進歩が、ザハ・ハディド氏らの様な「ラディカルなポストモダン」の建築を実現可能にしました。現在はモダニズムとポストモダンの境界が限りなく曖昧になった時代とも言えます。そこ変は、また明日。




本日は磯崎ファンから石を投げられそうな内容になりましたが、バブルの時代を懐かしみながら、ポストモダンに建築について振り返ってみました。