罠だとは分かっていた。
理事長に会った明くる日に、バーコードに呼び出された。
放課後の校長室。
校長室というのは、どこでもそうだけど校長の個人的なオフィスというだけではない。
普通教室ならまる一つ分のスペースには、校長用の大きな机と、指導要録なんかの重要書類の入った金庫。それに、応接セットを置いても、半分のスペースが残る。そこには大きなテーブルが十数個の肘掛け付き椅子を従えて鎮座している。運営委員会など、学校の重要な小会議が開けるようになっている。
校長や教頭が、保護者や教師に「折り入っての話し」をする時にも使われる。
バーコードは、その折り入ってのカタチでわたしを呼び出した。
「失礼します」
ノックと同時に声をかける。ややマナー違反だが構わないだろう。
「どうぞ」
返事と同時にドアを開けた。
バーコードは、わざとらしく観葉植物のゴムの木に水なんかやっていた。観葉植物の鉢の受け皿には、五分目ほども水が溜まっていた。 罠にかける緊張から、水をやりすぎていることにも気づかない。分かりやすい小心者だ。
「いやあ、お忙しいところすみませんなあ」
バーコードは鷹揚に応接のソファーを示した。
バーコードが座ったのは、いつも校長が座る東側のソファー。背後の壁には歴代校長のとりすました肖像画や写真が並んでいる。バーコードが、初代校長と同じポーズで座っているのがおかしかった。
「実は、この度の件、早く決着させておこうと思いましてね。いや、今回の度重なる事故は、先生の責任ではないことは重々承知しております。校長さんも気の毒に思っておいでです。今日は校長会で直接お話できないので、くれぐれも宜しくとのことでした」
「緊急の校長会なんですね。定例は奇数月の最終土曜……来週三十日が定例ですよね」
「え……あ、いや。なんか都合があったんでしょうな」
――そちらの都合でしょうが。
「申し上げにくいことですが、今回の件につきましては、残念ながら、くちさがない噂をする者もおります……」
――だれかしら、その先頭に立っているのは……。
「で、理不尽とお感じになるかもしれませんが、そういう者たちの気持ちもなだめにゃならんと……なんせ、職員だけでも百人近い大所帯ですからなあ……」
「みなまでおっしゃらないでください。間に入って苦労されている教頭先生のお気持ちも分かっているつもりです」
「貴崎先生……」
「わたしに非がないと思って庇ってくださる先生のお言葉は、身にしみてありがたいと思っています。しかし噂が立つこと自体わたしに甘えや、日頃の行いに問題があるからだと思います。生徒二人を命の危険に晒したことは、やはり教師としての資質の問題であると感じています」
「貴崎先生、そんなに思い詰められなくても……」
「いいえ、やはりこれはケジメをつけなければならないことだと思います。一義的には、生徒を命の危険に晒したこと。二義的には、学校の名誉を傷つけてしまったこと。そして、もう一つ。わたし自身のためにも……ここで、教頭先生のお言葉に甘えて自分を許してしまっては、ろくな教師……人間になりません。どうか、これをお受け取りください」
わたしは懐から封筒を出して、そっとバーコードの前に差し出した……校長の机の上に不自然に置かれた万年筆形の隠しカメラのフレームに封筒の表が自然に見えるように気を配りながら。
封筒の表には「辞表」の二文字が書かれている。
バーコードは、一呼吸おいて静かに、しかし熱意をこめてこう言った。
「いや、これは。あ、あくまでもくちさがない者どもの気を静める為だけの方便でありますから、理事会のみなさんにお見せして、そのあと直ぐに却下という運びになろうかと、どうかご安心して、ご自宅で待機なさっていてください」
「ご高配、ありがとうございます……」
と言って、わたしも一呼吸置く……バーコードが演技過剰で、カメラに被ってしまう。
わたしは、腰半分窓ぎわに寄り、臭いアドリブをカマした。
「こうやって、わたしの心は、やっとあの青空のように晴れやかになれるんです……」
「貴崎先生……貴女のお気持ちはけして忘れはしませんぞ!」
感極まったバーコードはわたしの手を取った(気持ち悪いんだってば、オッサン)
「では、これで失礼します」
カメラ目線にならないように気をつけながら、わたしは程よく頭を下げた。
カメラのアングルの中に入っているので、部屋を出るまで気が抜けない。
ドアのところで振り返り、トドメの一礼をしようとしたら、バーコードが、またゴムの木に水をやっているのが目に入った。
「教頭先生……水が溢れます」
「ワ、アワワワ……」
と、バーコードが泡を食ったところでドアを閉めた。
あれだけ、台詞の間を開けてやればビデオの編集もやりやすいだろう。
理事長に会った明くる日に、バーコードに呼び出された。
放課後の校長室。
校長室というのは、どこでもそうだけど校長の個人的なオフィスというだけではない。
普通教室ならまる一つ分のスペースには、校長用の大きな机と、指導要録なんかの重要書類の入った金庫。それに、応接セットを置いても、半分のスペースが残る。そこには大きなテーブルが十数個の肘掛け付き椅子を従えて鎮座している。運営委員会など、学校の重要な小会議が開けるようになっている。
校長や教頭が、保護者や教師に「折り入っての話し」をする時にも使われる。
バーコードは、その折り入ってのカタチでわたしを呼び出した。
「失礼します」
ノックと同時に声をかける。ややマナー違反だが構わないだろう。
「どうぞ」
返事と同時にドアを開けた。
バーコードは、わざとらしく観葉植物のゴムの木に水なんかやっていた。観葉植物の鉢の受け皿には、五分目ほども水が溜まっていた。 罠にかける緊張から、水をやりすぎていることにも気づかない。分かりやすい小心者だ。
「いやあ、お忙しいところすみませんなあ」
バーコードは鷹揚に応接のソファーを示した。
バーコードが座ったのは、いつも校長が座る東側のソファー。背後の壁には歴代校長のとりすました肖像画や写真が並んでいる。バーコードが、初代校長と同じポーズで座っているのがおかしかった。
「実は、この度の件、早く決着させておこうと思いましてね。いや、今回の度重なる事故は、先生の責任ではないことは重々承知しております。校長さんも気の毒に思っておいでです。今日は校長会で直接お話できないので、くれぐれも宜しくとのことでした」
「緊急の校長会なんですね。定例は奇数月の最終土曜……来週三十日が定例ですよね」
「え……あ、いや。なんか都合があったんでしょうな」
――そちらの都合でしょうが。
「申し上げにくいことですが、今回の件につきましては、残念ながら、くちさがない噂をする者もおります……」
――だれかしら、その先頭に立っているのは……。
「で、理不尽とお感じになるかもしれませんが、そういう者たちの気持ちもなだめにゃならんと……なんせ、職員だけでも百人近い大所帯ですからなあ……」
「みなまでおっしゃらないでください。間に入って苦労されている教頭先生のお気持ちも分かっているつもりです」
「貴崎先生……」
「わたしに非がないと思って庇ってくださる先生のお言葉は、身にしみてありがたいと思っています。しかし噂が立つこと自体わたしに甘えや、日頃の行いに問題があるからだと思います。生徒二人を命の危険に晒したことは、やはり教師としての資質の問題であると感じています」
「貴崎先生、そんなに思い詰められなくても……」
「いいえ、やはりこれはケジメをつけなければならないことだと思います。一義的には、生徒を命の危険に晒したこと。二義的には、学校の名誉を傷つけてしまったこと。そして、もう一つ。わたし自身のためにも……ここで、教頭先生のお言葉に甘えて自分を許してしまっては、ろくな教師……人間になりません。どうか、これをお受け取りください」
わたしは懐から封筒を出して、そっとバーコードの前に差し出した……校長の机の上に不自然に置かれた万年筆形の隠しカメラのフレームに封筒の表が自然に見えるように気を配りながら。
封筒の表には「辞表」の二文字が書かれている。
バーコードは、一呼吸おいて静かに、しかし熱意をこめてこう言った。
「いや、これは。あ、あくまでもくちさがない者どもの気を静める為だけの方便でありますから、理事会のみなさんにお見せして、そのあと直ぐに却下という運びになろうかと、どうかご安心して、ご自宅で待機なさっていてください」
「ご高配、ありがとうございます……」
と言って、わたしも一呼吸置く……バーコードが演技過剰で、カメラに被ってしまう。
わたしは、腰半分窓ぎわに寄り、臭いアドリブをカマした。
「こうやって、わたしの心は、やっとあの青空のように晴れやかになれるんです……」
「貴崎先生……貴女のお気持ちはけして忘れはしませんぞ!」
感極まったバーコードはわたしの手を取った(気持ち悪いんだってば、オッサン)
「では、これで失礼します」
カメラ目線にならないように気をつけながら、わたしは程よく頭を下げた。
カメラのアングルの中に入っているので、部屋を出るまで気が抜けない。
ドアのところで振り返り、トドメの一礼をしようとしたら、バーコードが、またゴムの木に水をやっているのが目に入った。
「教頭先生……水が溢れます」
「ワ、アワワワ……」
と、バーコードが泡を食ったところでドアを閉めた。
あれだけ、台詞の間を開けてやればビデオの編集もやりやすいだろう。