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個体を数えると確かに9つある。ただ、この鋳型たちはなぜ何かの形を模したような出来上がりを呈しているのか。鋳型は開いた中の形が問題であり、むしろそのことだけが問題(主題)であるはずなのに不要であるはずの外観が立派に設えられている。あたかも何かを想起させる誘因である。
不要、外回りは中を包むのに無くてはならない物であり、無くては中の形を包み込むことはできない。必要であるが、外観の工作は不必要である。
『9つの雄の鋳型』は焦点をずらし、鑑賞者の眼目を分散、破壊している。視ようとする者の目を他に仕向けて主題を大きく外している。
この巧みな《すり替え》は、タイトルと作品を合わせることでは空中分解、空に帰す目的を果たしている。
意味の分解、無意味に帰することである。
デュシャンの仕掛けた罠は、言葉と二次元表現(作品)により空間に縦横な亀裂を差し入れている。《有=無》、恐るべき実験である。
写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより
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