音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。
☆隠れた絡(みちすじ)には千(たくさん)の問いがある。
魂の等(平等)の譚(話)である。
字を査(調べると)、等(平等)の憶(思い)が呈(外に現れる)という質(内容)の記である。
終わりまで普く綿(細く長く続くこと)を黙している。
※金沓鍛冶はシューベルト(Schubert)
砂糖屋の丁稚はベートーベン(Beethoven)を暗示している。
ところが、いったんこういうことがあると、こんどは正しい日時にもう一度行ってみても、追いかえされてしまうのがふつうです。追いかえすのは、もうわけないことです。当人が受けとった呼出し状書類に残っている控え書きも、秘書たちにとっては、かならずしも十分とは言えないにしても、それでも強力な防御武器なんです。
☆召集の日時を了解するように注意されるだけです。正しい日時に行って見ても受け付けない規則です。この愚策には小舟の苦情があり、当人が手にした関係者の召集や書きとめた記録は秘書たちにとっては常に手遅れなのです、が強い防御の武器になります。
《・・・のように見える》ことの確信と裏切り(意外性)は表裏一体である。対象物には常にその危険性があるにもかかわらず、わたし達は経験からくるデータをうのみにし、すでに承知したものとして処理する傾向がある。
この作品を前にしての歓喜はなく、むしろ無感動・困惑あるいは拒否の感情に傾くのが一般的な感想だと思う。
たとえば価値という観点から見ても使用に絶えず美しくもなく、有用性を見出すことが難しい。噴飯物・・・何故?どうして?という不審さが浮上するだけである。
しかし、あえてこの寄せ集めを差し出した英断の根拠に迫ると、見えてくるものがある。
つまり、「この作品自体をご覧になればわかるでしょう、これはわたくしです。」そう言っているのではないか。
無価値で役に立たず無防備で意味不明、大理石を角砂糖に見えるように加工する愚、処分すべきイカの甲を混入する悪ふざけ、計測に意義のない温度計、目的を外した鳥かご(容器)、このメチャクチャなのがわたくしの正体である。
この地球上に只今現在、存在しているという事実、即ち共存の事実は動かし難く、あるいはこの物の性質上、死を免れ不変でさえある。
この作品の底に流れる普遍のメッセージは《存在の重さ》であり、存在の原初、知覚の生理を問うものではないか。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
自身への問いかけは世界への問いかけでもある。
写真は(www.tschen.com)より
72才、残りの時間はどのくらいあるのだろう。これからは発育はなく機能低下の実態が目に見えるように顕在化していくに違いない。
止められない、物質としての変化・衰退。
記憶力の低下…今さら言うべくもない現象かもしれない。すぐやる(実行)ではなく、すぐ忘れるという信じがたいほどの忘却力。
財布を忘れて買い物に出る、もう最悪である。無駄な動きはしたくない、動くのが嫌いなわたしのミス・・・起きてしまったことは仕方がないと、とんでもなく落ち込むわたしをなだめてみる。
思えば、忘却と怠慢はセットになっており、わたしの人生は低空飛行。
明日から…ずるずる引き伸ばしながらここまで来た努力の薄い日常。
残り時間は少ないぞ!
・・・でも、無理をしない、転ばないという2箇条を守り粛々と生きて行く。
角砂糖型に加工した大理石の用途?単に徒労とも思えるが、同じもの(酷似)の集合がひしめき合っている光景にも見える。
無味無臭、意味のない似た者同士が押し合いへし合いしている光景。
鳥かごの中を一つの社会と捉えれば、殺伐としたまるで幽閉された社会に見えてくる。出口(開放)はあるが、出ていくエネルギーがなく留まらざるを得ない。飛ぶ精神力の欠如、重力に委ねた存在である。しかも小さな社会にすぎないことへの自覚を促すような作品の造りは衝かれるものがある。
「否定せよ、反旗を上げろ!」のつぶやきはやがて木霊のように大きく胸にわだかまりを生じさせる。
死(終末)はすぐそこに隣り合っている・・・イカの甲は大理石の中を割って入りこみ、しかもこの社会(鳥かご)から抜け出しているではないか。
温度計は、内在する空気の上昇を秘かにキャッチしてはいまいか。
見る者は想像力を拡散し、あらゆる可能性を考える。
しかし、究極、無機的な無意味なものの寄せ集めからは価値を見い出せない。未来(発展)のない絶望、これらは気温の昇降に無関係な代物である。
ただ物理の世界で通用しないことも、思考(精神)の世界では、この作品を基点として導かれる時間への挑戦が動き始める。否定は肯定の道を開く鍵である。
写真は(www.taschen.com)より
「だめだ。まるでなってゐない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。縁層までもうあと十日しかないんだよ。
☆極(行き着くところ)の真(まこと)に蔵(隠したもの)は、諸(もろもろ)の訓(字句を解釈すること)である。
掩(かくしたもの)は総て自由に化(形、性質をかけて別のものになる)で、化(教え導く)。
kおういうときはまだ尋問をおこないません。ふつう問題がそこまで熟していないからです。しかし、当人は、呼出し状をもっています。だから、こういう人は、もう予告なしの不意打ちをかけるわけにはいきません。せいぜい都合のわるいときに押しかけるだけです。そういうときは、呼出し状の日時をよく見ろと注意されるだけがおちですね。
☆彼はこの傷痕を問いません、たいてい問うことはないのです。いつもの解決すべき事件はまだ機が熟していないからです。しかし当人は召喚されていますから、全くの予告なしに驚くことはありません。せいぜい来させるだけで、召喚の日時を了解するように注意されるだけです。
やっぱり晴れた日は嬉しい。
昨日の「歩こう会」は早朝横須賀線の事故により急遽JR鎌倉駅集合を京急新逗子駅にに変更したものの、澄んだ青空、そよぐ風の心地よさで不具合のある歩行も何とかクリアー。2万2千歩越えの快挙、逗子・鎌倉を歩いた。(ちなみに何年か前の山越え二つをメンバーの高齢化のため省略、リーダーたちの御配慮に感謝)
故赤木圭一郎のお墓があるという長勝寺では和服姿の美しいご婦人に遭遇。
「今日が赤木圭一郎さんの80才のお誕生日なんです」とのこと。80才!思うところがあって深くため息をついたさりげない会話。
「今日は何のご用でしたか」と伺うと、このお墓参りのためだった由。美しい方の際立つ盛装・・・自身のだらしない日常を恥じたことでした。Ah…。
とにかく歩く。お荷物のわたし、ホントごめん。メンバーの皆様ほんとうにありがとうございました!
百名山目指してあと少しというメンバーもいらっしゃる。チアリーダーの世界大会を目指す孫に「負けてられない」と。
「すごいわ、あなたのご両親て、なになさってたの?」
「普通の人だよ、でも父は棒高跳びの選手だったわ」(…スゴイ、凄すぎる)
唖然、呆然・・・運動に縁のなかったわたし、アスリートは輝ける宝石。眩しくて目がくらみそう、でも元気もらうわ、ありがとう!
角砂糖型の大理石に意味はあるだろうか、用途の不明な加工である。
ただ、白く小さい物の集合は重量感に乏しく、逆を言えば軽い印象を受けるのではないか。
しかし存外、想像以上に重いという意外性(イメージの裏切り)がある。
大理石自体は動かぬものというイメージがあるが、この小さな鳥かごの中では外部の力が加わることで簡単にその形態(配列)は崩れ、二度と同じ形態(景色)に戻ることはないという不可逆性がある。
鳥かごにしてはかなり小さな部類である(11.4×22×16センチ)、一時的な保護としての空間であり、生息は困難に違いない。しかもこの場合、目的を外した対象物の混合であり、意味を失っている。
鳥かごに必然性はあったろうか、呼吸をするもの(生物)のエリアという潜在意識(固定観念)を微かに醸し出していることは否めない。むしろ前提条件として必須だったかもしれない。
イカの甲はカゴから飛び出しており、自由な逃避を認める景色であるが、もちろんイカの甲・大理石・温度計などは生命を持たず、その意思が生じることはない。
鳥かごは開いている、しかし、その開放に準ずる意思の存在は皆無である。
生命(エネルギー)のない物体に温度計は無用である。
無用、矛盾の混濁をコンパクトに置換したこの『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』という作品は、存在の意義に対する無言の抵抗・反感である。
写真は(www.taschen.com)より
「ではすぐ今の次。はいっ。」
そらと思って弾き出したかと思ふといきなり楽長が足をどんと踏んでどなり出しました。
☆混ぜた字の詞(言葉)で談(話)を推しはかる。
絡(すじ道)を調える則(道理)で、等(平等)を推しはかる。