続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『城』3183。

2019-05-16 06:25:21 | カフカ覚書

なにしろ、限度以上に重たい仕事をほんとうに気前よく引きかぶって、だれもが青息吐息のありさまですからな。しかし、われわれは、請願者が勝手にわれわれの担当業務を乱すことを黙許するわけにはいきません。


☆現場不在の重さを負うのは真の氏族ではないのですから。しかし、絶え間なく小舟の災難である妨害を甘受しています。


🈞デュシャン『階段を下りる裸体』

2019-05-15 07:06:48 | 美術ノート

   『階段を下りる裸体』

 絵画作品には作者の意図がある、要するに描きたい目的であり、たいていの場合、物語や光景の特記すべき感動を伴うものである。
 必然性・・・階段を下りる裸体に必然性はあるか?

 この絵の裸体は、人間らしい質感に乏しく板状の断片を工作し接合したものであるが、頭部・胸部・腰・足を想起させる形と位置に符合するので〈着衣のない人間/裸体〉であると合意できる要素を持っている。
 階段らしきものも描かれているが、歪で差異が有りそうで無く、平板であり不確かではあるが螺旋状を思わせる造りである。(つまり直進で下ることは不可能)

 裸体の連続は、何を現しているのだろう。時間というより動きをごく厳密に分解するならば、このような混沌があると仮想している。もちろん物理的な意味を外した精神界の雰囲気の微分ともいうべき現象である。 

 平板に見える日常の一こまを、不条理に満ちた精神界に転移させた光景の描写である。デュシャンは日常の断片を精神的な素材に置換し、時空間(雰囲気)を捉えたのである。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』17.

2019-05-15 06:48:42 | 宮沢賢治

それにどうしてもぴたっと外の楽器と合はないもなあ。いつでもきみだけとけた靴のひもをひきずってみんなのあとをついてあるくやうなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねぇ。


☆我意の絡(つながり)の記を合わせて混ぜている。
 
※靴のひもがとける→untied(安泰)
 いつでも地球は安泰だと言っているのかもしれない。ゴーシュはGlobe、もしくはGlobal Spirit、地球、もしくは地球の精神ですから。


『城』3182。

2019-05-15 06:42:08 | カフカ覚書

そんなことをしたら、まず第一に担当の秘書が怒ってしまうでしょう。わたしたち秘書は、仕事の点にかんしては、おたがいにけっして嫉妬したりするようなことはありません。


☆それによって、所属の秘書は怒ってしまうでしょう。わたしたち秘書は、お互い現場不在に対して強い対抗心など持っていません。


足の痛み。

2019-05-14 07:36:02 | 日常

 頑張ればなんとかなる、とは若い時に限るのかもしれない。足に痛みがあっても頑張れば乗り越えられると錯覚したのが間違いのもと。
 筋肉痛になり、くしゃみをしても痛いほどの過敏に悩まされて初めて気づいた。

 哀しいかな失笑・・・身の程を知って高齢者らしく自分の体力と相談しながら行動すべきと今さらながら反省。
 本日はサークルのメンバーだった故倉沢氏による手作りの杖で外出。出てみるとお店の片隅に杖を忘れてくるほどには回復(ほっ)
 
 明日も出かける用があるけれど、今日の疲労度を測って出席か否かを決めるつもり。
 立っていられないほどの痛みは多少遠のいたけれど、年を取ってからは数日後に結果が出るので油断できない。

 つくづく情けないけれど、年相応の劣化を認めようと思う。
 転倒しリハビリに励んでいる友人のことを思うと、明日は我が身、ほとんど御同類である。早くKさんとも机を並べたい!


🈞デュシャン『汽車の中の悲しめる青年』③

2019-05-14 07:01:48 | 美術ノート

 汽車の中、つまり他力、換言すればすでに出来上がっている観念の呪縛の中でという意味である。
 自分はそこから飛び降りたいが走り出している汽車から出ることは不可能である。このまま汽車を信頼して乗っていていいものか・・・。

 若き日のデュシャンの苦悩である。
 過去・現在・未来の切れることのない時間・空間の中の存在である自分(青年)は絵(二次元)の中に表現(答え)を求めているが、〈悲しめる青年〉としての自分を客観視し、光景の中の自分を描いている。

 画の中に籠めようとした具体性、彩色はアースカラーで打ち沈んでいる。光はあるが陰翳の奥行の方が深く、青年と思われる形は肉質を持たず平板の寄せ集め、あるいは何かの部品の接合のようである。つまり、人の要素(条件)を打ち消している。
 連写を模して時間を切り取り、一つの対象に時間と立体(三次元)とを付加しようと試みているが鑑賞者を納得させるには足りない。その自覚が(悲しめる青年)というタイトルになったのかもしれない。
 当たり前のように目の前にある平面の領域、その中での試行錯誤、デュシャンの壁への挑戦。平面を突き抜ける表現、デュシャンの汽車は走り続ける。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』16.

2019-05-14 06:50:26 | 宮沢賢治

おいゴーシュ君。きみには困るんだろうがなあ。表情といふものがまるでできてない。怒るも喜ぶも感情といふものがさっぱり出ないんだ。


☆訓(字句を解釈して)訓(教え導くこと)を混ぜ表している。
 条(物事の筋道/道理)に努(力を尽くしている)。
 記は換(入れ替えること)で常に推しはかる。


『城』3181。

2019-05-14 06:41:08 | カフカ覚書

むろん、これは、その件を担当している秘書にのみ当てはまることです。それ以外の秘書を夜中に不意打ちすることなら、だれでもできるでしょう。しかし、まずだれもそんなことはしませんし、ほとんど無意味です。


☆もちろん、この事件に属する秘書にのみ関係があり、その他には死期、死の不意打ちは誰にもあるでしょう。しかしそんなことは、ほとんど無意味です。


🈞デュシャン『汽車の中の悲しめる青年』②

2019-05-13 14:51:18 | 美術ノート

 連続写真に対する意欲、つまり時間の流れである。
 時間を平面(二次元)に留めることは可能か・・・眼は連続して撮られた対象物を追うが、過ぎ去った時間の追体験にすぎず、今を体感することは副次的に造られたものの中には存在しない。
『汽車の中の悲しめる青年』は一見、過去から現在・未来へ移行しているような膨らみを呈しているが、単にそう理解しようとする思惑が働くだけである。

 疑似空間に時空の流れ(ムービー)は再現できない。
 汽車の中という想定は、動く時間の共有を仮想できる設定である。
 悲しめるという副詞は、情感を現すが画の中に暗さはあるが必ずしも悲しみを醸し出しているとは思えない。
 青年という《若い男》の分類(あるいは領域)に関する具体性の欠如は、鑑賞者を困惑させ、『汽車の中の悲しめる青年』という存在を抽象化させる。
 つまり彼(『汽車の中の悲しめる青年』)の存在は、製作者は(存在する)と言い、鑑賞者はそのタイトルから覗き見るという構図になっている。
 さらに製作者の本意は、否定と肯定の間を行き来する二次的な仮想空間の想定にあると確信する。青年は、迷路を走る汽車の中の(悲しめる)現象の幻影かもしれない。


 写真は(www.tauschen.com)より


🈞デュシャン『汽車の中の悲しめる青年』

2019-05-13 06:54:56 | 美術ノート

   『汽車の中の悲しめる青年』

 削進を鑑賞する場合、作品とタイトルは通常、密接な関係があるという前提で作品に臨む。
 だから作品の中に『汽車の中の悲しめる青年』を探し、無理にもそうであろう部分に協調する。

 作品は人体(人間/性別不能)の連鎖あるいは人体の分割であり、人体というにはその質感は肉感を伴わず、紙もしくは板のように見える。もちろん見えると言うに過ぎない。

 頭部と思われる位置が俯く姿勢に合致しているため、悲しめる青年の雰囲気に抵触する。即ち形態は否が応でも何らかの様相を呈してしまう。意図するとしないに関わらず。仮に俯く姿勢(線条)ではなく、反対に反る形態でも悲しめるを感じることはでき、人はそこに記号が付記してあれば、その記号の意図に副うように心理は傾くようになっている。
 汽車は描かれなくとも、「汽車の中」といえば汽車の中なのであり、「汽車の中の悲しめる青年」といえば、汽車の中の悲しめる人間として受け止め、その条件を前提に作品を関連付けていく。そのように脳は学習されており他の選択があるにもかかわらず、大方は記号を信頼し納得してしまう。

 作品に描かれた光景は立体的に再生しようと試みても不可能である。
 平面(二次元)に描かれた光景は、通常三次元を基に描いているという思い込みがあるが、この場合、線を辿っていくと手前のものより後ろにあるものが手前に出てくるという微妙な混雑がある。
 要するに復元を拒否する画と言ってもいいかもしれない。

『汽車の中の悲しめる青年』は、《詩》である。自力ではない外からの力(天命)で突き進んでいくような不安を抱えた自分自身の心情吐露のつぶやきが聞こえる。


写真は(www.taschen.com)より