堀江珠喜・大阪府立大学名誉教授
江嵜企画代表・Ken
江嵜企画代表・Ken
「耽美主義への誘惑 谷崎~三島由紀夫」と題して11月29日(日)午後2時から3時半まで講師、堀江珠喜、大阪府立大学名誉教授の特別講座が芦屋市立美術博物館で開かれ楽しみに出かけた。
当美術館に隣接する芦屋市谷崎潤一郎記念館では「タブー~発禁の誘惑~特別展」がたまたま開かれており講演会入場券につけられた招待券で見学できラッキーだった。
コロナ対策として換気及び座席間隔をとるなど制限で限定40名が講演を楽しんだ。講師席左右の窓と部屋後部ドア開放で「オーバのまま、マスク着用で失礼します。寒いですから皆様もご遠慮なく場所の移動など願います。」と断った上で、堀江先生は講演を始めた。
三島と芦屋との関係では、野坂昭如「赫変たる逆光」(87年)に「三島の父、平岡梓は、官舎を嫌い、夙川にあったホテル、パインクレストを定宿。大阪営林局長在職中、ダンサーに入れあげ、宗右衛門町、花隈,京都先斗町の茶屋にも足を向け放蕩に振るまっている」とあると紹介した。「谷崎潤一郎」(66年)で「「細雪」は、今後、日本文化の様式を記録した傑作として世に伝わるだろう。文化が作品たるに止まらず、その国深い伝統と生活様式、物の感じ方、味わい方、日常の挙借動作、趣味趣向の端々迄支配するものであることを、今後の大衆社会の成員は、およそ理解できなくなるかもしれない。」と三島は書いている。
三島と谷崎とは耽美主義で共通している。耽美主義とは美しいかどうかで全てが決まる。三島はアフォリズムが得意技のオスカァ・ワイルドに憧れていた。「オスカア・ワイルド論」(‘50年)に「私が初めて手にした文学作品は「サロメ」であった。これは私が初めて自分の目で選んだ自分の所有物にした本である。」と書いた。
谷崎と三島は「雅」の世界を求めたことで共通しているが、私見だがと前置きして「三島はエッセイストとして優れた作品を数多く残している。長編では三島より谷崎が上だ、と思う。これは三島の家系を調べると武士の流れ、それに対して谷崎は町人の流れと関連しているかもしれない」と堀江先生は話した。
三島は「花火」「幸福」「優雅」にこだわった。「花火みたいに生きよう。一瞬のうちに精一杯夜空をいろどって、すぐ消えてしまおう。」と熱烈に思った」と書いたワイルドの短詩を好んだ。「沈める滝」(55年)では「幸福!幸福!それが生きて動いているところを見るだけでも尽きせぬ慰めである」と主人公のセリフに書いた。「不道徳教育講座」(‘58年)では「源氏物語の時代には文明は今より進歩しておりました。優雅と言う言葉は、本質的には、性的熟練という意味だと考えてよいのであります。」と書いた。
三島は悲劇的なものへの憧れを持っていた。1968年「血と薔薇」創刊号に、裸体で腰の周りに巻き付けた白い粗布のみのゼノアのグイド・レー二の「聖セバスチャン殉教図」そっくりのポーズで自らを映した写真を掲載している。
三島は1970年11月25日に同士と心中する。丁度50年前に当たる。「十八歳と三十四歳の肖像画―文学自伝」(’59年)に「私はそれでも時々、自衛隊にでも入ってしまいたいと思うときがある。病気で死んだり、原爆で死んだりするのはいやだが、鉄砲で殺されるならいい。」と書いている。
講演の最後に堀江先生はこれはあくまで私の見方ですがと断って「なぜ、三島は死を選んだのか。」と問いかけ「「盾の会」結成当初と比べれば学生運動も下火になってきていた。三島の本の売れ行きも落ちてきていた。このままではメンバーを食べさせていけないという危機感を三島は持ったのではないか。1960年代から三島は「盾の会」を自費で面倒を見ていた。月300~400円万かかっていたようだ。100人いたメンバーにも脱落が始っていた。若者たちを普通の生活に戻そう。それは三島の美学でもあったのだろう。三島の最後は、オスカァ・ワイルド、「サロメ」で完結している」と堀江先生は話を終えた。
三島の最後はつづまるところ経済問題だったのではないかとの堀江先生の話が特に印象に残った。(了)