思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

教育への政治介入の愚かさ―魂の殺人鬼・岩波『世界』5月号

2012-04-23 | 書評
 
 
岩波『世界』の5月号は、特集「教育に政治が介入するとき」を組み、東京都の石原知事と大阪市の橋下市長の行っている政治的なイデオロギーによる学校教育支配の実態を暴いています。 国家主義思想による管理が、民主主義の否定を招き(自由な議論の禁止、現場や子どもたちによる決定を認めない上からの命令)、瀕死に陥っている学校現場に人間性を回復するための特集です。

『東大話法』を厳しく批判している安冨歩さん(東大教授)の言葉を借りれば、まさに悪の集団=ショッカーとなっているのが、強権政治家と教育委員会に所属する役人集団です。仮面ライダーとして彼らに立ち向かっているのが、特集の最初に対談を行っている土肥信雄さん(元東京都立三鷹高校校長)と尾木直樹さん(教育評論家・尾木ママ)です。

その他のライダーは、
藤田英典(共栄大学)さん、中嶋哲彦さん(名古屋大学)、小川正人さん(放送大学)、西原博史さん(早稲田大学)、池添徳明さん(ジャーナリスト)、新井紀子(国立情報学研究所)、尾崎幸謙さん(統計数理研究所)、近藤幹生さん(白梅学園大学)です。

ぜひ、お読みください。特に対談の部分は分かりよく説得力に富みます。

なお、最近になって、よく大学入試問題にも使われている『盗まれた自由」』は、わたしの師であった竹内芳郎さんが1988年に我孫子市で行った講演文ですが(わたしが主宰した講演会※で、筑摩書房刊の『ポストモダンと天皇教の現在』の巻頭論文)、その中で竹内さんは、管理教育を行う文部省や教育委員会の役人とそれに同調する教師たちを「常習犯的な殺人鬼とでも呼ぶほかない存在」(6ページ)と言っています。


子どもたちと子どもの側に立つ教師たちを強権で抑圧し、不幸をもたらしている現実を変えていくためには、まず現実をよく知ることが必要です。個人の良心に基づく市民的な公共性により、強権的な政治支配という悪を打ち破るのは、わたしとあなたの言動の力です。みなさん、ぜひ共に!

教育の【原理】は、こどもを愛し、寄り添うことなのです。

※ このわたしが主宰した竹内芳朗講演会は、現・消費者庁長官(当時は我孫子市議)の福嶋浩彦さんとわたしの二人でつくっていたミニコミ紙『緑と市民自治』(我孫子市全域に新聞折込で配布・4万部)で竹内哲学を紹介して参加を呼びかけたものです。朝日新聞にも事前に取り上げてもらい(千葉版のトップ記事)大盛況でしたが、この講演文を中心にして『ポストモダンと天皇教の現在』が筑摩書房から出版され、それがキッカケで『討論塾』がつくられたのでした。

(補足・ちょうど20年前の岩波『世界』の8月号には、わたしの書いた『我孫子丸刈り狂想曲』が載っていますので、ぜひ、ご覧ください)

 

武田康弘
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「人事を尽くして天命に遊ぶ」――小沢一郎・石川和祐 対談

2011-09-30 | 書評

以下は、石川議員の著書『悪党 小沢一郎に仕えて』の第3部「対談」での小沢一郎議員の言葉ですが、正鵠を射るものですので、ご紹介します。


「マスコミは日本人の悪いところの典型なんだ」(小沢)
―まさしくその通りですよね。至言とさえ言えましょう。

「いまの震災を例にすると、マスコミを含めてバカみたいに、やれ挙国一致だ、やれいま政権を変えるのはどうだ、ってアホみたいな議論をしている。欧米では違うんだよ。危機だからこそ強力な政権とリーダーをつくらなければならないっちゅうのが彼らの考え方だよ。丸くなって、談合ばかりしていたって解決しねえんだよ。原発事故にしたって誰も責任をとらない。誰が責任者なのか、誰が決めているのか。わけがわからない。・・・(だから)ゆでガエルみたいな日本人になる。」(小沢)

「おお、そういや、この言葉が好きで机に取っておいたんだ。
――『人事を尽くして天命に遊ぶ』。
「天命を待つ」「天命に従う」が普通の言葉なんだよ。これは自分で自分に期待感がこもるだろ。自分にいいように天命が回ってくりゃいい、と。
「天命に遊ぶ」ってのは、確か戦前の左翼が言ったんだよ。だからあまり言うなと忠告する人もいるけど、オレは最高に気にいっているんだ。」(小沢)

「スケベ根性を起こしちゃダメだっつってんだよ。人事を尽くすことが大事。それぞれの立場、職責で全力を尽くせば世の中はよくなるんだよ。見え透いた根性を起こすからみなおかしくなるんだよ。」(小沢)

「お前(石川議員)もまだまだだな。いまの民主党の欠陥は、俗に言う「雑巾がけ」、基礎的な鍛錬、基礎的な勉強をしないで偉くなっちゃったヤツばかりなんだよ。・・基礎的な修業を積み、経験を積み、知識を積む(ことで)、こういう時はこう、ああいう時はこうと、自分の価値判断基準、政策判断の基準っつうのが自然と作られてくる。」(小沢)

まさしく、何事でも、
どのような勉強、研究、活動でも、
基礎鍛錬・繰り返し・土台・足腰固めこそ一番必要。基礎こそすべて。


武田康弘


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『オットー・クレンペラー』 初のドイツ語による伝記の邦訳―みすず書房刊

2011-09-26 | 書評


わたしの最も敬愛する指揮者、オットー・クレンペラーの伝記が出版されました。
本格的なクレンペラーの伝記は、ヘイワースによる二巻の大著(英語)がありましたが、この度は、生誕地のドイツからです。

2010年にドイツで著された本書は、「書簡や同時代人の証言などの膨大な新資料に基づき、錯綜した人間像に迫る」と言われますが、巨人クレンペラーの新たな魅力があらわされていると思いますので、読むのが楽しみです。

アマゾンで発売前に予約し、昨日届きました。

エーファ・ヴァイスヴァイラー著 明石正紀訳
『オット―・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』
2011年9月21日発行 みすず書房 4600円+税



武田康弘
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「エネルギー政策の転換を 参院委で識者が脱原発訴え」(中日新聞)

2011-05-24 | 書評

【政治】
エネルギー政策の転換を 参院委で識者が脱原発訴え
2011年5月23日 23時24分

 石橋克彦神戸大名誉教授や孫正義ソフトバンク社長ら「脱原発」を主張する識者4人が23日、参院の行政監視委員会に参考人として出席し、国のエネルギー政策の転換などを訴えた。

 委員から、津波対策後に再開を目指す中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の耐震性を問われた石橋氏は「大丈夫なんて全く言えない。浜岡は、地雷原でカーニバルをやっているようなもの」と再開に強く反対。浜岡1号機が運転を開始した1976年から「東海地震」の可能性を指摘しており「地盤の隆起で敷地がでこぼこになる可能性がある。海水の取水管や防波壁が壊れて役に立たないかも」と強調した。

 100億円の義援・支援金を寄付するほか、全国各地に太陽光発電所の建設を計画する孫社長は「国内の休耕田と耕作放棄地の2割に太陽光発電を設置すれば、原発50基分をまかなえる。今は農地転用の規制で不許可となるが、仮設置を認めたらどうか」と政策転換を促した。

 京都大原子炉実験所の小出裕章助教は「高速増殖炉は68年に計画が持ち上がって以来、10年ごとに目標が先延ばしにされ、いまだ実現していない。永遠にたどり着けないであろう施策に、すでに1兆円を投じた責任を誰も取らない」と原子力行政の行き詰まりを指摘した。

 福井県選出の委員からは「原発銀座」と言われる同県の現状への質問も。石橋氏は「若狭湾は地震の活動帯。海底活断層がたくさん見つかっており、大津波の可能性はある。非常に危険なのは間違いない」と話した。

(中日新聞)

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『隠される原子力』(小出裕章著)『原発を考える50話』(西尾漠著)

2011-05-04 | 書評

原発に関する本を二冊読みました。

一冊は、岩波ジュニア新書『原発を考える50話』(西尾漠著)です。
この45話目の「原発は地球を救わない」は、白樺教育館(ソクラテス教室)で、4年前から小学6年生の国語教材として使ってきたものですが、
全体を読んで感じるのは、科学的知見と人間の生き方や社会問題としての「原発」が合わせてきめ細かく書かれていて、とても説得力があります。

二冊目は、『隠される原子力』(小出裕章著・創史社刊)です。
これは、ジュニア新書の半分ほどの分量で読みやすいですが、ストレートに本質に切り込み、二酸化炭素問題の「常識」のウソについても明晰に批判をしています。さすがに優れた研究者です。


(ただし、自衛隊を廃止するのが憲法理念だとするのには、わたしは賛同できません。戦争を放棄する旨の憲法をもっている国は幾つもありますが(文春新書『日本国憲法を考える』西修著を参照)、自衛のための軍事力までは否定していません。)

この二冊、とてもお薦めです。

以下は、岩波新書『原発を考える50話』より抜粋。
23「揺れる大地」(P.100~103)

「巨大地震が発生すれば、原発のさまざまな機器が同時に破損します。「何重もの安全装置」があったところで、それらの装置も、やはり破損するおそれがあります。原発の事故対策としてよくいわれる「とめる、冷やす、閉じ込める」が働かない可能性が、地震の場合には大いにあります。
 原発を緊急に停止させる制御棒がうまく入らないかもしれません。運よくとめられたとしても、燃料は放射能による高熱のため、冷しつづける必要があります。原発の運転をとめれば発電所内でつかう電気の供給がとまり、冷却装置が維持できなくなります。非常用のディーゼル発電機を動かそうにも、同時に破損していてつかえないかもしれないのです。
 原発で燃やしたあとの使用済み燃料は、再処理工場や中間貯蔵施設に向けて運び出されるまで、原発内のプールで冷却されています。地震でプールの水が抜ければ、燃料が溶け出します。
 緊急停止に失敗して核反応が異常に進む暴走事故を起こしたり、燃料が溶けたり、タンクや配管が破裂したりして放射能が漏れ出すかもしれません。それを閉じ込めるはずの格納容器や格納容器を貫通する配管なども破損していて、環境に大量の放射能を放出するおそれがあります。
・・・・
 幸か不幸か原発は地震の静穏期につくられ、巨大地震を経験していません。・・・それがいま「日本列島はほぼ全域で大地震の活動期に入りつつある、ということはほとんどの地震学者は共通に考えている」と石橋教授は指摘しています。
・・・・
 原発は大量冷却水と広い敷地を必要とするため、海岸地帯のきわめて地盤の弱いところにしか建てられないのです。地盤が悪ければ、地震のときの揺れは大きくなります。また、地震断層ができやすいという大問題もあります。地震断層が直下でできれば、どんなに頑丈に原発をつくっても、ひとたまりもないでしょう。
 そこで、電力会社などが、原発を建てるために、地盤データをごまかしたり、都合の悪いデータを隠したりすることになります。



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『知事抹殺』ー福島原発問題で国・経産省と闘い、逮捕された前知事・佐藤栄佐久氏の著書

2011-04-28 | 書評

『知事抹殺』ー佐藤栄佐久著(前・福島県知事)平凡社 2009年9月刊 

以下は、2年近く前に出た上記の本からの抜粋です。


★佐藤前知事は、1988年の知事選で、建設業界推薦の候補と闘い、脱金権政治を進めた気骨ある政治家で、圧倒的な支持を得ました。(しかし、検察特捜部の「国策捜査」により逮捕された。東大法学部卒の政治家が逮捕されたのは、この半世紀ではじめてのこと)


 1988年
 一地方の首長選挙にまで口をはさんでくる傲慢さに、参議院議員だった私は激し怒りを感じた。中央が好き勝手に役人を担ぎだして知事選に出馬させる。民主主義の危機である。
安倍晋太郎氏から自民党幹事長室に呼ばれた。・・要は「降りろ」というのである。・・私は、「それはできない。知事は県民が選ぶのだ」と拒否した。
「保守王国福島」にあって、世代交代の風穴を開けようとした私を、県民は熱狂的に迎えてくれたのである。

――――――――――――――――――
 
 2002年8月29日、原子力保安院からのFAXは恐るべき内容だった。
 「東京電力福島第一・第二原発で、原発の故障やひび割れなどの損傷を隠すため、長年にわたり点検記録をごまかしてきた」と書かれていたのである。
 やはり「国と電力会社は同じ穴のムジナ」だった。考えられない内容の不正行為に私は言葉を失った。
 当事者の東電よりも、告発を受けながら二年間も放置してきた国と原子力保安院に対して感じた怒りのほうが大きかった。私は副知事に檄を飛ばした。
本丸は国だ。敵を間違えるな
翌8月30日、私は記者団に囲まれた。
「国(※自民党政府)、経済産業省はこの二年間何をやってきたのか。トラブルを二年間伏せておいて、経産省は、『安全文化の向上』と言っていた。茶番をやっているのか。一番安全に関係する福島県民のことをどう考えているのか。」
「この問題を東電がどうした、当事者の誰がどうした、プルサーマルが進まなくなる、などと矮小化してはならない。原子力行政全体の体質が問題だ。政策そのものを考え直さないといけないのではないか。」
「日本は、原発に対し世界の共通の常識を持つべきだ。」

県庁に戻り、今後の対応について打ち合わせをした。
われわれの相手は経済産業省である。・・官僚はさっと抜け穴から逃げるので、ドジョウを逃がさないだけの目の細かい『ざる』を用意しなければならない。いよいよ本番、決戦が来た」――これから霞が関の官僚と交渉することになる県職員への私の檄であり、アドバイスだ。

この頃(2003年1月)私と国の原子力行政・東京電力との闘いはピークに達しつつあった。・・私は、一度県知事として承認を与えた福島原発でのプルサーマル計画事前了解も白紙撤回しており、この三カ月後には、日本の原発がすべて停止する事態に発展する。私にとっても、前年から常に緊張の毎日が続いていた。

翌年の2004年は、新潟県中越地震をはじめ、台風、集中豪雨などの天変地変が相続いた一年だった。
1月24日、秘書課長が、『アエラ』のコピーをもってきた。
「知事大株主企業の不可解取引」大きな見出しが躍っていた。郡山スーツが行った、私がしらない土地取引と木戸ダム建設工事発注の件を、無理やり結び付けて「疑惑」としている。
 しかし、発売翌日、『アエラ』の本社で会議であり、「(この件は)事件性がない、と結論づけた」

(以下、経緯が長く複雑なので、しばらく省略)

2006年10月23日、『毎日』『読売』の夕刊に「前知事、逮捕」という予測記事が大見出しで載った。
電話は、午後にかかってきた。
「東京地検特捜部ですが、事情をお聞きしたのでお会いしたい。準備ができ次第、ホテルハマツの地下駐車場に来てほしい」・・・・ 
 クルマを降りると、茶色のワゴン車に移乗するように指示された。同じ型の車、二台が来ていた。窓にはカーテンがめぐらせ、外が見えないようになっている。・・
 私は、ちょっと驚いて、
「ここで事情を聞かれるのではないのですか」
と聞くと、男性は「検察事務官だ」と名乗り、東京に向かうのだと答えた。
車中ではほとんど会話は交わさなかったが、県庁から持って帰った資料の整理が途中だったのを思い出し、携帯電話で電話した。妻に、
応接間の原発関係の資料は、裏の倉庫に入れておくよう
と指示すると、検察官らしい人がすぐにどこかに電話して、何か指示していた。「・・裏の倉庫」と聞えた。翌日、私の自宅も家宅捜査を受けることになるが、それは保釈されてから知ることになる。
 
 ・・・車はそのまま小菅の東京拘置所に入った。

車を降りたところで逮捕状を見せられる。
そこには「収賄罪」と書かれていた。





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『竹田教授の哲学講義21講』(みやび出版)3月25日刊・1800円

2011-03-31 | 書評
『竹田教授の哲学講義21講』(みやび出版)3月25日刊・1800円

ギリシャ哲学と近代ヨーロッパ哲学についての解説書として、本書は極めて優れています。
哲学書の読解が、思想の本質を探るという「意味論」として提示されていて、深く納得できます。
哲学説の核心的な内容を軸としての解説本であり、一般教養としての哲学の履修にも、哲学を専攻する学生にも、一押しの「教科書」です。
また、竹田さんの哲学の解釈は首尾一貫して大河のようであり、ギリシャ哲学と近代ヨーロッパ哲学のもつ価値を闡明にしますので、哲学教師にも大いに参考になるはずです。

ただ、注意しなければならないのは、竹田解釈が現代に生きる人(特に若者)の日常感覚に見事にフィットするために、竹田さんとそのグループによる哲学書読解の成果(現在進行中の「完全読解」シリーズ等)を後追いする営みが、「哲学する」の代わりになってしまうことです。

日々、自分が生きている現場・現実において、自分の生を自分で考え・つくる能動的営みこそ「哲学する」ことなのですから、哲学書の読解を「生きて哲学するエロース」と混同しないように注意すべし!です。ヘタをするとオタクになってしまいますから。

大学の哲学教師でない大多数の人にとっては、自分の日常の「仕事」「生活」を踏まえて、生の意味や価値を考え・生きるのですから、哲学は、それに役立つように遇さなければ意味がありません(哲学が人生をスポイルしたのでは、笑えない笑い話)。
哲学のよい遇し方の見本は、石橋湛山(第55代総理大臣)です。「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支える「作用としての哲学」を生きたのでした。

書評に戻りますが、『竹田教授の哲学講義21講』は、かつて「哲学」で悩んだことのある人には「推理小説」のように面白く読めるはず。活字の大きさ・段組がよく、とても読みやすいですし、表紙の絵も楽しく、358ぺ-ジで1890円。とってもお得です。全然哲学ではない「正義の話をしよう」のサンデル本などとは比較になりません(笑・ホントウ)。

武田康弘
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

全面的に賛成 (内田卓志)

「大学の哲学教師でない大多数の人にとっては、自分の日常の「仕事」「生活」を踏まえて、生の意味や価値を考え・生きるのですから、哲学は、それに役立つように遇さなければ意味がありません(哲学が人生をスポイルしたのでは、笑えない笑い話)。
哲学のよい遇し方の見本は、石橋湛山(第55代総理大臣)です。「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支える「作用としての哲学」を生きたのでした。」(武田)

 昨日ある会で、石橋さんの言説と、少しその原点の王堂哲学について話してきました。
 私が石橋さんと出会った、25年前に比べれば石橋さんのことは、よく知られるようになりました。

 ただ、先生と私がこだわっている原理。(先生と知り合ってから強固にこだわっている)
 「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支え「作用としての哲学」を生きたのでし  た。

 このところを掴まないと、なんで石橋さんの揺るぎのない、一貫とした言論や思想の本質が分かりません。思考とは、そういう 行為・行動・作用・反射の一段階でないと、市井の民にとっては、役に立たない単なる飾り物の学問です。プラグマティズムは 大切です。

 上記のご意見、全面的に賛成。哲学者石橋湛山について語ることは、これから一層重要になります。

 私は、かつて白樺周辺の哲学として石橋さんを紹介しましたが、周辺ではないようです(笑)。

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健全・有用な新たな哲学への態度 (武田康弘)

内田さん
石橋湛山の話は、管理教育批判に取り組んでいた二十数年前にしばしば出ていましたが、「対し方」に確信がもてず、放置していました。
それが、内田さんから田中王道との関わりの話を聞くに及んで、本格的に取り組むことになったのです。とても感射しています。
哲学というと、どうしても「哲学書の読解」とイコールにされてしまうので、大変困ったことだと思い、【哲学への構え・態度の変更=民知(意味論)という知】をつくるための営みを『白樺』(その前身の『児童教室』1976年~と『哲研』1987年~)で続けてきたわけです。
わたしは、ずっと孤軍奮闘の思いでしたが(哲学館→東洋大学の創設者井上円了には共感)、石橋湛山の思想と実践=生き方を正面から見据えることで、勇気が湧き、深いよろこびを感じます。
もう40年以上前ですが、哲学者の言説を学び始めた高校生時代に、ドイツ観念論のまるで「理性による宗教」のような哲学に疑問をもち、デューイのプラグマティズに健全な明るさと現実的な有用性を感じたのを、昨日のように思い出します。
なんだか、とても楽しく気分です。共に!!
武田


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誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀(ウォルフレン)

2011-03-05 | 書評
『誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀』(角川書店)
カレル・ヴァン・ウォルフレン; 単行本; ¥ 1,680



本書は、『菊と刀』以来の最も優れた日本研究の書として世界的なベストセラーとなった『日本権力構造の謎』(上下二巻)の著者であるカレル・ヴァン・ウォルフレンによる著作です。
『権力構造の謎』(88年英語版、90年日本語版)は、日本の優れた社会学者(言語派社会学)である橋爪大三郎さんにも衝撃を与えた書で、彼が彼我の実力の差を見せつけられて呆然とする様は、文庫版(ハヤカワ文庫)の解説に正直に表されています。
 
『誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀』は、内容の豊富さと明晰性において群を抜く著作を次々とものにしてきたウォルフレンの新作です。わたしは、当ブログ・コメント欄の林さんの紹介で知り、すぐにアマゾンに注文を出しましたが、ぜひみなさんも読まれたらよいと思い、ご紹介します。わたしは届いたら読んで、ブログに感想を出すつもりです。


武田康弘

永田町取材30年以上のオランダ人ジャーナリストが、「小沢一郎」問題の背後に浮かび上がる「非公式権力」と、その支配の構図を徹底解明。検察とマスコミによる「異分子」の抹殺、民主主義を揺るがす「日本型スキャンダル」の罪、そして小沢一郎問題と戦後日米関係を結びつける「密約」の正体とは――。日本の未来を問い直す刺激的論考、騒乱の渦中に緊急出版!

「小沢一郎」問題の本質を照らすキーワード、"Character Assassination 人物破壊"とは?! 標的を実際に暗殺(Assassination)する代わりに、対象の世間的な評判や人物像(Character)に致命的な打撃を与えて表舞台から永久に抹殺する手法。政界や学界でライバルを出し抜く際に用いられ、欧米諸国ではしばしば使われる表現。(本文より) 「しかし、小沢氏に対する日本国内の強力かつ長期的な"人物破壊"キャンペーンは、世界的に類を見ない――」


●日本の読者へ(カレル・ヴァン・ウォルフレン緊急インタビュー)

――なぜ、小沢一郎氏をテーマとする本書を刊行することにしたのですか?

 私が執筆を思い立ったのは、抜本的な政治改革という、多くの日本人が明確な意思表示をもって臨んだ類い稀なるチャンスが失われようとしていると感じたからだ。
 その国にとってとてつもなく重要な展開は、しばしば、大多数の国民が気づかないうちに起こるものだ。人々の関心はきわめて些細な出来事に引きつけられがちである。小沢氏が起訴されたことは当然のことながら国民の関心の的となったが、大勢の人々にとって、それはエンタテインメントのひとつにとどまっているらしい。そして、ある重大な事実、すなわち小沢氏が日本の政治にとってどれほど重要な役割を果たしてきたかという事実を、大半の人は忘れてしまったかに思われる。
 そもそもこれまでの日本では、政策立案をするために必要な機能が停止したままの状態が続いてきた。それは、半世紀以上にもわたる旧態依然とした体制が維持されるよう、自民党が取り計らってきたためなのであり、民主党が自民党から政権を奪い返した意義は、ここにこそあったのだ。
 そして、彼らが自民党から政権を奪い返すことのできるような状況を生み出した人物こそ、小沢一郎氏にほかならない。ところが民主党の政治家の多く、おそらくその半数までもが、真に抜本的な改革をしようという当初の熱意を失ってしまったかに見える。そうした人々は小沢氏の評判を貶め、彼の政治生命を抹殺しようと生み出された架空のフィクションに乗せられてしまったらしい。
このようなフィクションを生み出した人々、特に日本の検察や新聞の編集担当者たちは、かなり早い時点で、小沢氏は現体制という日本の政治システムにとって脅威となる人物であると断定したのだろう。その判断自体は間違っていない。小沢氏がその誕生に手を貸した民主党は、この旧態依然とした政治システム側からすれば、確かに脅威だったのである。

――日本政治の現在の問題点、そして目指すべき方向性はどこにあるのでしょう?

 民主党を政権の座につけたのは、日本の政治システムの問題を修復するという同党の約束を信じた日本の有権者たちである。つまり日本の有権者は、民主党と小沢氏に、日本が世界の先進大国となったあと何十年にもわたって続けられてきたやり方を変えてほしいと望んだのである。
 本書のなかで私は、日本のシステムは超法規的であると記した。これは、そのようなシステムを真に民主的なやり方で制御する手段が、日本国民の手中にはないということを意味している。そしていま、このような超法規的なシステムを維持しようとする人々は、小沢氏が犯罪者であるかのように喧伝することで、国民を欺こうとしているのだ。 彼ら自身は、自分たちが正しいことをしていると信じている。ただし彼らにとっての正しいこととは、混乱をもたらしかねない不確かなものを、どんなものであれ阻止するということである。彼らの行為を、理解できないわけではない。だが私は、政治による舵取りを真に実現し、本当に解決すべき問題に取り組む必要があるということを理解していた日本の人々をこそ、いっそう強く支持する。
 日本が解決すべき問題のひとつは、国際社会における日本のポジションである。日本を直接取り巻く東アジア地域の状況は、一変した。ところが日本政府はこれまでのところ、日本とその近隣諸国の双方にとって有益な方法で新しい状況に適応することができずにいるようだ。
 この問題には、日本のアメリカへの依存体質が密接に関係している。ではなぜアメリカに依存するのか? それは、政治的な舵取り機能を果たす真の政府の存在が日本には欠如しているからである。これこそ、民主党が改革しようと望んだことなのであった。

――最後に、日本の読者に向けたメッセージをお願いします。

 私は日本人ではないが、他のいかなる国にも増して、日本は私の人生にとって重要な存在である。私はこれまで20年以上にもわたって、多くの著書やエッセー、記事を通じて、幅広い日本人読者に語りかけるという幸運に恵まれてきたのだ。だからこそ私は、日本の人々の将来に何が起こるかということに、強い危惧を抱いているのである。

(以上は、角川書店のブログからです)


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『それは、密告からはじまった』土肥信雄ー東京都教育委員会の「狂気」の実態に唖然

2011-02-21 | 書評
澤宮 優さんの書かれた『生徒がくれた“卒業証書” ~ 元都立三鷹高校校長 土肥信雄のたたかい』に続き、今度は、土肥校長自身が書かれた『それは、密告からはじまった』を読みました。

こよなく生徒を愛し、優れて民主的な学校運営を続けた土肥信雄さん。ほとんどすべての生徒と保護者から愛され、支持されてきた稀に見る校長先生を、東京都教育委員会と石原知事が任命した将棋棋士の米長教育委員は目の敵にし、権力をもって弾圧・陰湿なイジメを行ってきましたが、その実態が本書では、事実をもって淡々と語られています。ただし、土肥さんの心は熱く、叙述はユーモアに富んで楽しいですが。

これを読むと、東京都教育委員会の「狂気」という他にない言動の意味が分かります。戦前と同じく、特定のイデオロギーにつく行政=政治がもつオゾマシサ・危険性が戦慄と共に明白になります。現場・当事者の意思を無視し、上位者のもつ特定の思想を強権によって実現しようとする事がどれほどの「悪」であることか。彼らの所業は、近代市民社会の常識を大きく逸脱し、根源悪と呼ぶほかありません。

本書を読み、一連の出来事の「事実」を知ってなお、東京都教育委員会に理があると思う人は、おそらく唯の一人もいないでしょう。議論すること自体を認めない!!という教育とは、酷い管理でしかありませんが、管理と教育が二律背反であることさえ知らない人が教育行政に関わるとは、ただ絶句あるのみです。管理とは機材や設備、あるいは品質について言われることであり、人間を管理するというのでは、悪未来のSF小説でしかありませんし、歴史的には、ヒトラーのナチズムや戦前の天皇制下の軍国主義における人間抑圧そのものです。

いま、土肥さんは、東京都教育委員会を相手に裁判をしていますが、この裁判で万一土肥さんが「敗訴」するなら、わが日本の民主主義は完全にオシマイでしょう。繰り返しますが、本書を読まれてなお、土肥さんに非があると思う方は、一人もおられないと思います。ぜひ、ご一読を。

「教育現場で私は生徒に「自分の思ったことははっきり言いなさい」と指導してきました。ほとんどの学校の教育目標に「自主性、主体性」という言葉が出てきます。私は、それを生徒に教えた責任からも、自分の思ったことは言わずに、不当な権力にへつらうことは出来ません。・・・今回提訴した一番の理由は「生徒のために」です。私の教えた生徒たちが自分の思ったことを自由に発言できる社会にしたいからこそ提訴したのです」(土肥信雄・本書106~7ページ)

みなさん、この問題に限らずですが、私が、自分が、できることをしてみませんか。評論家のような生き方はよい人生ではありません。小さな勇気ある行動・よき行為によってのみ、人間の生は、意味をもち、価値づく、わたしは、そう思っています。


武田康弘
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『小沢一郎完全無罪』-「特高検察」が犯した7つの大罪  平野貞夫著(講談社刊)

2010-08-29 | 書評

以下は、
「検察が健全でないと社会正義は揺らぐ。・・平野君、どうか検察の仕事を理解してやってくれ」という前尾繁三郎元衆議員議長の遺言を聴いた著者の平野貞夫さんの著書『小沢一郎完全無罪』-「特高検察」が犯した7つの大罪」(2010年4月講談社刊)からの抜粋です。

小沢一郎さんについて語る人は、この本を読んでからにしないといけない、わたしはそう思いました。なにごとも、憶測や感情のみで判断するのは極めて危険です。その人の近くにいた信用に足る人物の話を聴くことは、とても大切でしょう。


「私は、衆議員事務局に就職してから、ほとんどの期間、一貫して議院運営委員会の事務畑を歩んできた。そして、政治家の犯罪やスキャンダルについて数多くの案件を国会の現場で処理してきたのである。・・
その後、私は、1992年から参議院議員になった。そして法務委員会の所属し、議員としての12年間のうち、11年間、司法改革に専念した。
私が司法改革に協力してきたのは、少しでも恩師(前尾繁三郎)の理想とする検察の在り方を実現し、遺言を守りたいと思ったからである。
そうした思いから、私は政界を引退した今でも、情報社会における検察制度の健全な見直しを念頭に置き、日本の社会の公正さを確保・維持する機関として、検察を非常に重要視してきたのである。」


この後の本文、平野さんの論は、単に小沢さんの擁護というのではなく、強大な権力をもつ検察という組織の犯してきた過ちの実際と、検察組織の民主化のためには何をすべきかという提言です。とても平易・明晰ですので、ぜひ一読をお勧めします。


また、以前にお勧めした優秀な元検事の郷原信郎さん(政治的には反小沢)の著書『検察が危ない』(ベスト新書)も必読です。ここでも、検察の実態を知ると唖然とします。


武田康弘
コメント (1)
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哲学の民主化のためにー『ともに公共哲学する』(含・「金・武田の哲学往復書簡」)東大出版会刊

2010-07-09 | 書評
もし、哲学する(白紙の目で、日々の経験を踏まえ、自分の頭で考える)ことが、
西洋哲学の書物の読解か、あるいは中国やインドの古典を読むことであるならば、ほとんど全ての人にとって「哲学する」というのは、縁のない話です。

しかし、ほんらいの哲学するという営みは、幼い子ほどよくしていることで、「なぜ?」「どうして?」と問い、考えることです。生き生きとした知的興味の世界です。初源に戻り自分の頭で考える営みは、ただ覚える勉強とは次元を異にし、とても楽しいものです。本当は、どのような勉強や研究でも、一番大事なのは「考えること」にあるはずで、そうでなければ「覚える」ことは宙に浮いてしまい、「知」は根付く場所を失ってしまうのです。

したがって、哲学を「哲学史 内 哲学」というマニアックな世界から解き放ち、皆にとって有益で面白いものにすることは、21世紀の世界にとって極めて重要な課題であるはずです。


わたしは、シリーズ『公共哲学』全20巻(東大出版会)の最高責任者であり、日本・韓国・中国における公共哲学運動の牽引者である金泰昌(キム・テチャン)氏と、【哲学の民主化】のために、2007年に『哲学往復書簡』を36回交わしましたが、そのうちの30回分が、このたび東京大学出版会から刊行されました。

その本の題名は、『ともに公共哲学する』です。一般への販売は、8月1日からとなるようです。全体で400ページの大著ですが、そのうちの四分の一を金・武田の『哲学往復書簡』が占め、この本のメインとなっています。
他には、新聞ジャーナリスト、NPO主宰者らとの対話、人事院公務員研修所での金氏の講演と対話、国会所属の官僚・荒井達夫さんの問題提起と金氏の応答など、多彩な内容です。
大著で、装丁・紙質ともに上等なため、定価は3800円(税込で3990円)と高いのが困りものですが、8月以降に図書館でぜひお読みください。後からの加筆・訂正のない『オリジナルの金・武田の往復書書簡』については、すでに白樺教育館のホームページで公開されています。 その1(はじめに、1~23)   その2(24-34)なお、最後の33と34の2回分は、未発表のものです。

蛇足ですが、わたしは、【哲学の民主化】のためには、『金・武田の往復書簡』の部分をブックレットにし、千円未満で出すべきだと考えています。なお、わたしは、「出来るだけ安く」に協力し、原稿料も印税も頂いていません。


『ともに公共哲学する』 金 泰昌(キム・テチャン)編著  東京大学出版会刊 定価3800円+税  2010年8月1日初版

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コメント

公共のために俗物的な学の権威を放棄した (荒井達夫)
2010-07-10 00:54:59

この本は本当に素晴らしいと思います。学の世界を越えて対話・討論し、異論・反論をそのまま掲載する。しかも、それを権威ある学術書として公刊するというのは、見たことがありません。日本の歴史上はじめてではないでしょうか。言論表現の自由も理解できない日本人公共哲学者には、到底できないことです。偉業というべきでしょう。公共のために俗物的な学の権威を放棄して実現した学術書であると言えるかもしれません。公共とは学者の頭の中にあるのではなく、普通の市民の頭の中にあるのです。金泰昌さんの常識外のご努力とご功績に深く敬意を表します。

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わたしも読みました (森田明彦)
2010-08-14 15:24:48

武田さま&荒井さま

森田明彦@子どもの権利活動家です。
ご無沙汰しておりますが、引き続き元気にご活躍のようでなによりです。

私は日本社会に「権利主体としての自己」という人間観を如何に定着させるか、ということをずっと考え実践してきた人間なのですが、その観点から武田さんがどのような「私」観を持っているのか、ぜひ、お聞きしたいと思いました。

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「私」の本質論 (タケセン=武田康弘)
2010-08-15 10:17:47

森田さん、コメント感謝。

わたしは、日々の具体的経験(純粋意識)を根付かせる場所が「私」(自我)だと捉えています。
「権利主体としての自己」の確立には、「責任を持つ私」を絶対要件とします。
では、【責任】はいかに自覚されるのかと言えば、幼いころからの【自由】の行使です。「私」が自由に考え自由に行為することがないと(親や教師の言うなりではなく)、責任といういう意識は生じません。「自由と責任」とはセットですが、それは並列にあるのではなく、まずはじめに「自由な言動」の行使がないと「責任をもつ」という意識・態度は生まれようがありません。
こども(人間)を「責任をもつ私」へと成長させるためには、受験知は何の役にも立ちません。こども(人間)が「権利を行使する」という経験を積むことが、社会人・公共人 イコール 「責任をもつ私」をつくる唯一の方法です。

以上、わたしの簡潔なお応えですが、
森田さんはどのようにお考えでしょうか?

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日本の「私」 (森田明彦)
2010-08-24 08:28:47 ]

お返事が遅くなり失礼しました。
明快な回答をいただき、ありがとうございます。
子ども達を育てる方針としては、まったく異存はありあせん。

しかし、問題は階層的意識を個人の心の深層まで貫徹しようとする、この社会の伝統的な社会意識・社会構造にあるように思います。
しかも、私の見るところ、この社会意識は社会を安全で機能的に運営する上では意外に有効です。
だからこそ、多くの日本人は「言挙げ」することを嫌い、自己主張の強い人間を排除しようとするのだと思います。
そこを超える、日本的自己の構想が必要ではないか、と私には思えます。
ちなみに、社会意識・社会構造とは、私の場合は、その社会の構成員の多くが無意識ないし意識的に持っている「社会とはこういうものだ」という共通理解のようなもので、その社会を成り立たせている「この社会のあり方は正しいのだ」という正統性の感覚を伴ったものです。
社会像と言ってもよいと思います。
社会像はそれぞれの特有の人間観を伴っていると思います。
日本の社会像とか人間観は本来の国民主権、民主主義が想定する社会像、人間観ではないと私は思っています。
しかし、日本人はたいへん器用に、この社会像、人間観を根本的に変えることなく、近代化に成功し、戦後の経済復興に成功し、そして1990年代に入って、とうとう原理的に行き詰ってしまったということなのではないか、と思っています。
要するに、共産主義体制が最終的に崩壊したように、日本の社会を支えてきた原理もとうとう機能不全を起こしたのではないか、ということです。
そして、私の問題意識は、そういう日本社会が武田さんの目指される「ほんとうの民主主義社会」に脱皮するために必要とされている社会像、人間観の変容はどうしたら可能で、そもそも、そのような社会像、人間観はどのようなものなのだろうか?ということなのです。

武田さんはどうお考えになりますか?

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全身で対話する習慣を。 (タケセン=武田康弘)
2010-08-26 00:12:48

森田さん

わたしは、身振り言語を大いに含めての対話を意識的に行う努力が何よりも大切だと思い、長年実践してきました。その行為がいろいろな分野に波及して、成果をあげてきたわけです。

裸で本音で語り合う習慣、その面白さを体験できる場を身近なところにつくることが必要で、それが広がると、日本人の旧い人間観や社会観は自ずと変わっていくはずです。

その営みを、日本の風土・文化の中で行うことで「日本的自己」は、結果として生まれるのでしょう。日本的、は、目がけるものではない、というより目がけてはいけないと思っています。予めそれを意識すると矮小な世界に陥るからです。

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心とアタマで対話する習慣 (森田明彦)
2010-08-27 15:06:37

武田さま

森田明彦です。
実践論とはしては、私もまったく同感です。

ただ、日本人がどのような社会を目指し、どのような人間を育てたいと考えているのかは、やはり世界に通用する言葉で伝える必要があると思います。
そして、その際には当然、自分達がどのような歴史認識を持っているかもはっきりさせる必要があると思うのです。
もちろん、その歴史観は日本社会だけで通用する一国史観であってはならないと思います。

要するに、もし日本人が人間の基本的平等を信じ、主権者としての自覚を持つ権利の主体としての自己(市民)となっていくのであれば、それは過去の反省と新しい社会原理の(公共的な)承認を伴う歴史観を必要とすると思うわけです。

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セットの廃棄が基本条件 (タケセン)
2010-08-27 22:17:54

わたしは、先に記した「実践論」こそが基底的であり、かつ価値として上位にあるという明晰な認識をもたないと、理論は古い型から出られず、結局は「理論信仰」に陥る悲喜劇しか招かないと確信しています。おそらく森田さんと考えは近いとだろうと思います。

また、日本人は、キリスト教という強い一神教を持たないために、かえって社会契約論に基づく民主主義をより徹底して行える可能性をもつと見ています。ただし、その可能性を現実にもたらすには、明治政府がつくった国体思想(近代天皇制)を根元から断ち切る知的作業が必要ですし、同時に、民主的倫理の実践が不可欠のはずです。わたしが「靖国思想―近代天皇制・官僚主義―東大病」はセットであることを強調するのは、民主主義の現実化のためには、そのセットを廃棄することが絶対条だと考えるからです。アジアの国や世界の国と共有できる歴史認識をつくるためにもそれは不可避の作業のはず。


コメント (7)
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『生徒がくれた卒業証書―土肥信雄のたたかい』 澤宮優著(旬報社)

2010-07-04 | 書評


『生徒がくれた卒業証書―土肥信雄のたたかい』 澤宮優著(旬報社)
2010年7月1日刊 1575円



わたしは、東京都教育委員会のすさまじいまでの強権。戦前の国家主義となんら変わらぬ思想・態度を知り、公共的な憤りが腹の底からフツフツと湧いてきました。

民主主義の原理について何も理解していない都教委の役人たちを、東京都民は税金で雇っている。高給を与え、威張り散らす特権を与えて。

高潔で誰からも愛される校長先生を弾圧し、言論の自由を奪う。まるで北朝鮮のよう。

これほどまでに堕落した東京都の教育現場を見ると、都立高校の卒業生であり、1969年に高校改革の先頭に立って民主的改革を成就させたわたしは、呆れ返り、言葉を失います。

しかし逆に、パワーが湧き上がってもきます。個々人から立ち昇る〈魅力〉を奪う国家主義をその根元から断つための思想の闘いに、また新たなエネルギーが充填されました。

みなさん、ぜひ、ご一読を。


武田康弘
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「特捜の病理」を改善するために。 魚住昭

2010-06-06 | 書評

以下は、古林治さんからのメールです。


『g2(月刊現代後継ノンフィクション新機軸メディア)vol.4 2010.june』という見慣れない月刊誌に検察に関する興味深い記事がありましたので紹介します。

『特捜解体論』を書いたのは、ジャーナリストの魚住昭氏で、小沢一郎元秘書の「獄中日記」を取り上げながら日本の検察制度誕生の歪んだ経緯と、その結果暴走し続ける現在の検察を健全化するための処方箋について触れた内容です。
その最後の部分を引用します。


『 すでに読者もお気づきのように村木元局長の事件には”特捜の病理”が凝縮されている。それは石川衆院議員らの陸山会事件にも共通することだ。検事たちは事前に組み立てたストーリーを関係者に供述させて架空の犯罪をつくりあげようとする。ストーリーの誤りを内部チェックする仕組みはないに等しい。
 今のように検察が逮捕や起訴、保釈、さらには量刑にまで事実上の裁量権を握っている限り、同じようなことはこれからも繰り返されるだろう。上村元係長のケースのように、再逮捕の脅しや早期保釈の誘惑で虚偽の事実を認めさせるのはたやすい。検事たちは出世の糸口をつかむため、あるいは独りよがりの正義感を満足させるため、無意識のうちに冤罪をつくりだすだろう。


特捜解体への道筋

(1)それを防ぐには、まず被疑者から参考人に至るまでのすべての取り調べを可視化することだ。被疑者調べの可視化は欧米や韓国ではすでに実現されている。弁護人の立ち会いも多くの国で認められている。捜査過程が検証可能になれば、供述の押しつけは難しくなる。

(2) 可視化とともに”人質司法”の問題も解決しなければならない。無罪を訴えつづけると一年も二年も勾留されるという恐ろしい現実が日本にはある。すでに触れたように、その原因は刑訴法九二条にある。裁判所の保釈決定に対する検察官の介入を排除すれば、江副氏のように保釈されたい一心で身に覚えのない罪も認めざるを得ない人間は大幅に減るにちがいない。

(3)さらに重要なのは、刑訴法三二一条一項二号(検事調書の特信性)を見直すことだ。検察が警察の捜査した事件をチェックする役割に徹するならともかく、特捜事件のように独自捜査で、外部のチェックも受けない検事調書が法廷で特別扱いされる理由はまったくない。調書ではなく、法廷での証言が有罪・無罪を決めるという司法本来のあり方に立ち戻るべきだろう。

 以上の三点が是正されれば、特捜部の捜査のあり方は大幅に変わるだろうが、根本的な解決策ではない。特捜検察システムの最大の問題点は審判(公訴官)がプレーヤー(捜査官)を兼ねていることだ。

 その弊害をなくすには、犯罪捜査権を警察に全面的に委ね、検察は捜査のチェックと公判に専従する体制をつくるしかない。つまり戦後の司法制度改革でGHQが示した「検事は法廷の外に出るべきではない」という原則に立ち戻ることだろう。

 警視庁や大阪府警の捜査二課(知能犯や汚職などの担当)の機能を強化すれば、特捜部の代わりは十分につとまる。何より重要なのは、犯罪捜査は警察に、起訴は検察に任せることによって、検察と警察の責任を明確に区別することである。そうして初めて双方の間に良い意味での緊張感が生まれ、冤罪を防ぐシステムが作動する。

 そうなれば、一握りの検察官僚の思惑が政治や経済を左右するような事態も回避できる。ライブドア事件や一連の小沢氏をめぐる事件のような”粉飾捜査”もなくなるだろう。

 冒頭に堀江貴文さんが指摘した通り、特捜部はもういらない。検察が強大な権限を独占する制度を変え、「検察官王国」を解体しなければ、司法再生への道は開けない。』


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『思考停止社会』(郷原信郎著)講談社新書

2010-05-25 | 書評

『思考停止社会』(郷原信郎著)講談社新書(遵守に蝕まれる日本)


法とは人間がよく・楽しく・気持ちよく生きるためにのみあるもので、具体的な生活世界で上手に使いこなすものである。もしそうでなければ、単なる無意味な強制―法の前に人間がひれ伏すというバカげた逆転が起きる、ということを、論理のみならず日々の生活においても主張し、貫いてきたわたしは、まさか、検事というお堅い仕事をしてきた人から、わたしの思想とまったく同じ考えを聞くとは思わず、とても楽しくなりました(笑)。

法令の「遵守」、さらには、社会的規範の領域も「遵守」という精神に侵されているいまの日本は、完全な思考停止状態であり、これでは「真の法治社会」とは無縁で、恐ろしく、愚かであるという郷原信郎さんの主張は、哲学的にもまったく「正しい」もので、一読されることをお勧めします。

郷原さんの一連の検察庁批判が極めて的を得たものであるのは、このような明確な思想的背景を持つからでしょう。最新刊の『検察が危ない』(ベスト新書)における検察とマスコミの実態の叙述には背筋が寒くなりますが、検事としての23年間経験、明晰な論理、社会的公正への情熱が生む「真実」の提示です。

それにしても、法や規範を「何も考えずにただ守る。守らせる」というレベルの低い思想と態度(=人間の昆虫化)を生みだす元になっている日本の教育は、極めて重い罪を持ちます。受験主義を支え、管理社会・受動性社会を生みだす暗黙の想念=「思想」を元から断たなければ、この愚かな状態から脱することは不可能です。


武田康弘


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ウォルフレン「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」(「中央公論」4月号)

2010-03-18 | 書評

以下は、「中央公論」4月号のウォルフレン氏による論説『日本政治再生を巡る権力闘争の謎』の要旨です。


山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。・・・・
 ヨーロッパには彼に比肩しうるような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
ところが、日本の新聞各紙はまるで小沢が人殺しでもした挙句、有罪判決を逃れようとしてでもいるかのように責め立てている。・・一体、日本の政治はどうなってしまったのかと、愕然とさせられるのである。日本の主だった新聞の社説は、たとえ証拠が不十分だったとしても小沢が無実であるという意味ではない、と言わんばかりの論調で書かれている。これを読むと、まるで個人的な恨みがあるのだろうかと首を傾げたくなる。日本の未来に弊害をもたらしかねる論議を繰り広げるメディアは、ヒステリックと称すべき様相を呈している。

確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権が現れては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、自民党時代よりもっとたちの悪い行政支配というよどんだ状況が現出することになろう。

検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。・・鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。・・民主党の政治家たちは、今後も検察官がその破壊的なエネルギーを向ける標的となり続けるであろう。

日本の超法規的な政治システムが山県有朋の所産だとすれば、検察の役割を確立した人物もまた存在する。平沼騏一郎である(1867~1952・司法官僚・政治家)。彼は、「天皇の意思」を実行する官僚が道徳的に卓越する存在であることを、狂信的ともいえる熱意をもって信じて疑わなかった。山県のように彼もまた、国体思想が説く神秘的で道徳的に穢れなき国家の擁護者を自認していた。・・オランダにおける日本学の第一人者ウィム・ボートは、日本の検察は、古代中国の検閲(秦代の焚書坑儒など)を彷彿させると述べている。

検察が誰を標的にするかを決定するに際して、彼らの権力は、桁外れの自由裁量によって生じたものである。・・・検察官たちは、法のグレーゾーンを利用して改革に意欲的な政治家を阻もうとする。彼らは、極めてあいまいな政治資金規正法を好んで武器として利用する。・・政治家たちを打ちのめすのは、彼らが関わったとされる不正行為などではなく、メディアが煽り立てるスキャンダルにほかならない。検察官たちは、絶えず自分たちが狙いをつけた件についてメディアに情報を流し続ける。・・検察官はあたかも自分たちが超法規的な存在であるかのように振舞うものだ。

新聞社の編集幹部の思考は、高級官僚の思考とほとんど変わらない。・・日本のメディアが新しい政権について何を報道してきたかといえば、誰の役にも立ちはせぬありふれたスキャンダルばかりで、日本人の未来にとって何が重要か、という点が欠落していたのではないか。

 いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうことは、まさに権力闘争である。これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。しかし、キャリア官僚たちの権力など、ひとたび新聞の論説委員やテレビに登場する評論家たちが、いま目の前に開かれた素晴らしい政治の可能性に対して好意を示すや否や氷や雪のようにたちまち溶けてなくなってしまう。そして多少なりとも日本に対して愛国心のある日本人であるならば、新しい可能性に関心を向けることは、さほど難しいことではあるまい。

(この後の論述は、対米従属の日米関係を変えていこうとする鳩山・小沢政権への期待です。)もし、この政権を退陣に追い込めば、主権国家を目指す日本の取り組みは、大きな後退を余儀なくされることは言うまでもない。

※なお、ぜひ、「中央公論」の4月号で、全文を読まれることをお勧めします。

武田康弘




コメント (3)
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