思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ふつうの個人が輝く社会のためには、戦前思想=天皇主義の廃棄が不可欠。

2008-08-14 | 日記
いわゆる「世間」という自分たち【庶民の公共世界】と、
【国=お上という公(おおやけ)の世界】を分けるのは、多くの人の自然な考え方です。
年配者ほどそう考えます。

それは当然のことで、戦前の教育は、小学生の子どもたちに天皇陛下を崇めさせました。生きている神であり、大日本帝国の主権者であり、軍隊の統帥者である天皇陛下とその一族である皇室は絶対の存在で、日本臣民はみな天皇の赤子である、と教えられ、天皇陛下のために戦争に行き戦死すれば、『靖国神社』に国家の神として祀って頂ける、と教え込まれたのです。

「近代国家」でこれほど徹底した洗脳教育を行った例はどこにもありません。【国家の主権者であり、政治的・軍事的支配者であると同時に「神」である】!?これは狂気としか言いようのない思想ですが、それを学校教育で徹底させたわけです。明治の自由民権運動を根絶させた山県有朋や伊藤博文らの超保守主義たちの思想は、人類の歴史上まれにみるおぞましい結果を招来しましたが、その実態はいま、NHKのテレビなどで詳しく報じられています。体験者たちの生々しい証言は、聞くに堪えません。

民主主義社会では、主権者はわたしたち一人ひとりである。わたしたちのお金と意思で政治を行っているのであり、政府や官僚組織は主権者の意思を代行する機関に過ぎず、ふつうの市民に共通する利益(市民的な公共)を確保するためにのみ存在するーという原則は、戦後60年以上経ったいまもなお、残念ながら、明瞭に意識されることがありませんが、それは、上記の近代天皇制の思想教育の徹底が、いまだに「お上=公」と「世間=市民の公共」という分裂した意識を生んでしまうからでしょう。いまなお続く、東大法学部→キャリア官僚支配は、彼らが天皇の官吏として国=公(おおやけ)の特権者だったからなのです。民主主義の思想の徹底と、それに沿った意識・制度改革が急務です。

東大出版会のシリーズ「公共哲学」(全20巻)の編集方針は、この分裂の事実をそのまま理論化したものですが、それではこの現実を掘り、変えることはできません。

「政府にやって頂いてありがたい」!?とか、逆に、「お上の世話にはならない」!?という言い方がよくされますが、これは民主主義の本質を全く理解していない(理解できないように教育されてきた)ことの証左です。この悲しくおぞましい現実を動かさない限り、日本社会に【ふつうの個人が輝く】時代がやってくることは、けっしてないでしょう。

明日は、敗戦記念日。
国家の頂点に立つ者の戦争責任すら問えない無責任体制が戦前の「天皇主権国家」だったわけですが、ここから脱却しない限り、わが日本人は永遠に不幸です。
民主主義は形だけ、民主主義の内実である「自由対話」はなし、これでは人間は人間になれませんからね。


武田康弘
コメント
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