思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

言語を「後立てる」ことーほんとうの知のために

2008-08-19 | 日記
「学」にたずさわる人は、いつも活字中心、というより活字ばかりの生活をしているためなのでしょうか、異なる次元の話を同一次元で語ってしまうことが多いようです。
ふつうの人が十分承知していることが却ってなかなか分からない、ということがよくあります。

物事が「分かる」ためには、言葉による整理以前に全身でよく感じ知ることが必要ですが、活字中心の生活をしていると、【言語観念の現実】が優先するために、「現実」が平面的な活字世界と同列になり、理屈だけの空疎な世界に陥ったり、まったく無用な難問が生みだされることになります。また、言葉によってそれなりの整理が出来ると、「分かった」と思い込むことにもなります。
活字理論=書物が先にあり、それに合わせて現実を見るという「逆立ち」に気付かないので、ふつうの生活者とうまくコミュニュケートできないのですが、それを、一般人より優れているからだと思い込んだのでは救いがありません。それでは「学・オタク」としか言えませんが、ここからの脱出は極めて困難です。周りの人も高学歴者や「学」にたずさわる人を偉い・頭がいいと思いこんでいるために、自己誤認の「ああ勘違い」から容易には抜けられないのです。

わたしは、「民知」という立体的で実践的な知=「ふつうの知」が何よりも大切だと考えています。全身でつかみ、実際・現実を掬い取るように知るためには、活字が「先立つ」のではなく「後立つ」必要があるのです。
例えば、深く豊かな音楽体験を持っていなくても、言葉で音楽を上手に語ることができます。
絵や写真や彫刻などの美術体験や創作体験が希薄でも、言葉で分かったようなことは言えます。
昨日今日なにかしらの社会活動に携わった人でも、理論・知識をため込んでいれば、人の上に立つことができます。
子育てや教育の豊富な経験に裏打ちされた思想がなくても、書物の知識で教育哲学を語ることはできます。
活字が特権を与えるのですが、【言語を先立てる】このような手法は、もちろん詐欺でしかありません。この生々しい人間・現実とは無縁の観念遊戯でほんとうのことが分かると思っているのなら、ただオメデタイとしか言いようがありませんが、こういう現代の知は、私たちの社会の現実に計り知れない害を与えているのです。問題を解決せずに、逆に煩雑にし、混乱をもたらすからです。

生活世界に根を張ったほんとうの知、人間の心や社会の「現実」に意味のある有用な知が必要で、それこそがほんとうの知ですが、そのためには、言語観念を先立てるのではなく、心身の全体を使って体験する能力と、日々の体験から多層な意味を汲みだす力を育むことが必要です。ほんとうに言語を大事にし、言語に生きた意味と価値をもたらし、言語に優れた有用性を発揮させるためには、言語を後立てる「民知」という発想が求められるのです。よく見る・よく聴く・よく触れる・よく味わうー五感・全身を使って豊かに感じ、イマジネーションを広げることが何より【先立つ】のです。これは認識と生の原理です。


武田康弘
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