言葉の暴力への不感症。
【匿名】で他者のブログに罵声を浴びせ攻撃することに燃える若者たちが大人になったら、どうなるのか?
と思いましたが、わが国ではすでにそういう大人が大手を振るっています。
石原慎太郎氏は、年配者におけるその代表ですし、橋下徹氏は、中年者におけるその代表でしょう。口汚く相手を罵倒する、しかも堂々と。
こういう輩が威張り散らすわが国では、沈思―哲学的思索など夢のまた夢です。
ネットウヨク及び彼らと同様の表層的な理窟を論理だと勘違いしている人間を見ると、ほんとうに病んでいると思いますが、【匿名】ゆえにそのような行為をする者は自己反省の機会を失っています。
一人の「私」としての【責任】を引き受けなければ、言葉―行為は空を切り、いたずらに過激になるだけです。他者や他国への罵倒はエスカレートし醜い姿を晒します。
責任意識は【内面世界】を形成する上でなくてはならぬものですが、この【責任】という意識は【自由】がなければうまれません。自己決定しなければ責任は生じませんから。だから、幼いころから【お受験】などで親の敷いた路線に乗せられてしまうと、自己責任の観念が育たなくなるのです。
悪さをし、失敗をくりかえすこと。いろいろ試してみることではじめて自分で判断する=責任をとる力が育ちます。「僕の人生は僕のもの」「わたしの人生はわたしのもの」という意識、親や教師や・・他者に犯されない「私」のかけがえなさの自覚が出てきます。内的に・内側から、という人間としての生はここに誕生します。【内面世界】とは、誰でもないこの私の自由な言動が生む【責任意識】と一体のものです。
外的な言葉遊び・表層論理ではなく、生きたほんとうの言葉―思考は、【内面世界―責任意識】がないと生じません。
【匿名】という特権性や、強大な【権力】あるいは【権威】に守られていたのでは、【内面世界―責任意識】はつくられないのです。それは個人をつくらず、公共もつくりません。あるのは、すべて【もどき】だけの軽薄な人と世界。
武田康弘