思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

倫理なき生とは、人間なきヒトでしかありません。道徳律を強要する者は、反倫理の見本です。

2012-12-18 | 恋知(哲学)

以下は、白樺MLです。

倫理とは何か?についての対話篇です。

 

武田様

美味しいお店を予約して下さり、ありがとうございました。

ほんとうにお値段は「程々」でとても美味しかったです。 (我孫子市若松の和食レストラン『程々』は、食材も料理の腕も見事で、白樺派の「民芸」思想と通底する職人気質のお店です。驚くほど廉価ですー武田)

大満足です。

写真もありがとうございます!

教室に戻ってからのお話、「『倫理』的かどうかは『心』があるか否かである」ということ、とても良く分かりました。

最近あらゆるところで『心』のなさを感じます。『心』があればもう少し方向と結果が違っていただろうと思うことがよくありますね。冤罪の裁判でも、原発やトンネルの事故でも・・・

勿論政治全体でも。

反倫理的政府で「人間」とは言えない人たちがリーダーになれば、これからますます問題が顕著化しそうで心配です。

気付いた人から、何かできるところから行動を起こさなくてはいけませんね。

頑張りましょう。

楊原

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武田先生

『愉しい哲学の会』、今年最後の日に 最高に豊かな1日を戴きました感謝しております。

倫理について!良く解りました。

「道徳」とは社会的常識により「善い悪い」を判断して生きて行くことで、外にある基準で自分を律すること。でも、大切なのは内なる心の価値。それが「倫理」で、倫理は他人が対象などでなく、私自身の心の向かい方感じ方が深く豊かであり そこに思いやりや同情の優しさに満ちた心があること、という理解ができました。

また生きていくのが楽になりました 。

グランドグレートマザー「ヒイオバアサン」で、年をとって役に立たないことが恥ずかしくなっていたのに、まだ思いやりを持って生きていくのがいいのだと~楽な心になれました 。

先生のお言葉により  二回目の生きる力を戴きました。感謝して今年の締めくくりができます。有り難うございます。

先生は来年は飛躍の年を決意しておられますがお身体に気をつけて下さいませ、素晴らしい年をお迎え下さいませ。

清水光子

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楊原さま 清水さま
よいメールをありがとうございます。感謝です。

繰り返しになりますが、

「道徳律」というのは、外なる基準によって善い悪いを判断していくことですが、
「倫理性」は他人の批評(他者からの承認)ではなく、私の心のありようのことです。自他(人間とは限定されない)へと向かう愛の心であり、思いやりや慈しみや同情や優しさに満ちた心、その程度が倫理的価値の大小ですが、それは、私の内部で私が感じ知るものであり、外から測ることは出来ません。私の内部に養うもの・養われるものであり、強要することは不可能です。この愛の心が、最も深い意味での「責任」という意識を生みます。

心が苦しいとか、心が締め付けられるとか、心がしみじみするとか、心が愉悦感で満たされるとか・・・という私の内部の経験は、私が機械的存在でなく、人間であることを告げ知らせてくれますが、外的価値(損得、勝ち負け、有名・無名、権威・非権威・・・)に従う生き方は、単なる情報処理マシーンのようであり、フッサールのいう「事実人」(犬でも猿でもなく、またロボットでもなく、ヒトではある)に陥り、人間としての生を営む存在にはなれません。

倫理なき生とは、人間なきヒトでしかない、と言えます。

「道徳律」をつくり他者に命じ、教育する人ほど「倫理性」に乏しいものです。そういう輩は真の自己反省を持ちません。なにかしらの【超越項】(国家とか天皇とか国民の常識だとか・・・)を掲げて自己から逃げる卑怯者・愚か者です。そういう人が政治権力を使って学校教育に介入するのは、許し難い悪事で、反倫理の見本です。

武田

 

コメント
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