思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

音楽ーー日本人の演奏家や学校が知らない音楽フィロソフィの基礎

2016-04-19 | 学芸




音楽

技術はとても大切、その研さんは欠かせない。
しかし、断じて目的ではない。
技術の目的化は、音楽を殺す。

知識、音楽理論は必要不可欠。
だが、理論を先立てる意識は、音楽の息の根を止める。

音楽はよろこびだ、よろこびは目的であり、手段ではない。
音楽は深い想いだ、想いは目的であり、手段ではない。
音楽は躍動だ、躍動は目的であり、手段ではない。
音楽はイデーだ、イデーは目的であり、手段ではない。

音楽は、自由な精神と同意味なので、音楽が型ハマリになり、音楽が権威になれば、音楽はその固有の価値ー魅力を失う。ただの音響と化す。こけおどしと化す。「宗教」や「主義」のしもべと化す。
音楽は、音楽以外のなにものかに仕えたら、音楽から善美は消える。
「全体を一つにする」という目的で音楽が使われたら、音楽は人間性を奪う悪となり、グロテスクで危険な化け物となる。

音楽は、客観知ではないのに、学知のように遇されたら、「学校知」にまで堕ち、その命を終える。音楽における知は、主観性の知であり、学校知(=正解が決まってる客観知)という低い次元の知ではない。それ自体が目的となる主観性の知である。
日本人は音楽に限らずだが、知の手段にすぎない客観知と、知の目的である主観性の知の区別ができず、曖昧なために、音楽表現の意味が分からず、音楽イデーを表現することがヒドク苦手だ。
だから、音楽のエロースを表出できず、客観学の延長としてのコンクール主義に走らざるを得なくなる。自己の内側から内発的に生み出す音楽イデーを持てないために、「審査員の主観性」に合う表現を目がけるという逆立ちした発想と行為に陥るほかはない。

日本では、音楽は、音楽固有の得難い意味と価値、音楽固有のエロースを持たず、固い殻被りの「音楽もどき」以上にはなれないのだ、恐ろしく上手い音楽もどき、とは、極限的なブラックジョークである。

音楽が仕えるのは、ただ一つ。自由な人間が求める善美のイデアのみだ。



武田康弘

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