世界には、「神は唯一なり」とか、「この宇宙は神が創造した」とか、という一神教を、いまだに信じている人がいます。21世紀の現代にです。
日本でも、万系一世の天皇陛下(笑呆)というようなおバカな迷信を信じて有り難がる人がいます。元号を使う天皇教という差別の制度化をよろこんでいるのですから呆れるしかありません。
ウンザリもいいところですが、
どうしたら、こんな愚かな話を信じる頭になれるのか? 恐らくはなにかしらの不全感(疎外感)あるいは、習慣の強要、惰性化から心が歪んでしまうのでしょう。
それでは、自分も他者も不幸にし、とても危険です。
迷信や、超越的な思想は、もうやめましょう。人間は、いつまで愚かな想い込みの世界から抜け出せないのでしょうか。
宗教はミニマムがいいのです(あっても南無阿弥陀仏の6文字でお終い)。自然に対する憧憬や畏敬など広い意味での宗教心はなくならないでしょうし、大切なものと思いますが、特定の強い宗教や主義に囚われるのは、ほんとうにこまりものです。
個別の科学を絶対化するのも同じく一宗教的心性(唯一絶対を求める心)であり、不味いです。
深く納得のできる総合的な判断能力=『理性』の力は、指や全身の皮膚感覚、鋭敏な五感、心と身体と頭のすべてを一体化させる日々の営みにより鍛えられます。心身全体による会得です。
21世紀の課題は、ほんらい芸術と科学とフィロソフィー(恋知)は一体であることを知ることです。頭でっかち何でも知っているというのはダメです。知るのは、取り組む課題と結びついていないと死んだ知になります=「もの知り自慢」の愚かさ。知は、根づく場所を持たないと、意味がないのです。かえってほんとうには知らない=体験として了解できていないことを隠してしまいますから、有害です。
全身の細胞で、感じ、想い、知り、考えることがないと、『理性』は生まれません。信じてよいのは、普遍性をめがける自分自身であり、外なる神=超越神ではないのです。この簡明にして偉大な真理を理解→了解できないと、いつまでも宗教的絶対(受験知絶対というのも同じこと)の観念に囚われて、不幸で愚かな意識から脱出できません。
自然に逆らわず、健康な人間として生きようではありませんか。自我主義やその裏返しの宗教的な絶対から自分を解放して、根のある楽しく豊かな生を歩まないと損です。徳も得もありません。外なる権威に従うのは愚かです。善美に憧れ、真実を求める内なる座標軸がすべての基準なのです。
武田康弘