今日の大学クラスでやったことですが、紀元前7世紀のインド哲学の天才=ヤージュニャ ヴァルキヤ(トルコ ミレトスのタレスに少し先行)と20世紀フランスのサルトル哲学(存在と無)の完全な一致、わたしとは認識主体のことなので、原理上、わたしを認識する(対象認識する)ことはできないのです。
わたしの意識現象ーありありと感じている色や音や・・・は、そのように感じること自体を説明することができません、脳細胞が刺激されてというのは観察できますが、それは意識現象(感じているこの感じ)を説明できないのですから、○○を認識するわたしを認識することは原理上、不可能というわけです。自我という存在がまずあって、意識現象を起こしているわけではなく、端的に意識現象がある、それが遡行の行き止まりです。意識現象をもっているために、わたしという自我が自覚されるのであり、その順番を逆にしてはいけません。西欧的自我主義に陥ります。
結局は自我の補強にしかならない一神教(主にキリスト教)に呪縛されているうちは、人類は自由で豊かな幼子のような人間味を持つことはできません。ヤージュナヴァルキヤやブッダの自我を超えた意識の自由な飛翔は、サルトルと共通です。一神教とその発想法を超えるのは何より大切です。
強い宗教「一神教」を真似て伊藤博文がつくった疑似的な一神教が「天皇教」で、その象徴が一世一元の「元号」(岩倉具視作成)です。生きている神ですから恐ろしい力・抑圧を生みました。政府作成のカルト宗教ですが、クリスチャンが天皇教と意外と親和性があるのは発想が一神教的ゆえだからです。
恋知という実存思想を深く自覚し、実践しよう~~!
自我主義の呪縛を解き、意識をしなやかに自由に伸び伸びと。既成秩序に縛られずに、広大無辺なイマジネーションの世界に羽ばたこう~~~~~~~~~ わたしは自由存在=自由な意識なのです。
武田康弘
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タケセンがどう考えるかに関わらず、