日本の近代化は、明治維新の思想=天皇教の下に行われたきましたが、それは、過激な国家宗教による超急速な近代化でした。
生きている人間を「神」とする思想(今の言葉ではカルト宗教と呼ぶほかないでしょう)を国家権力を用いて学校教育で全国民に徹底させたのですから、その威力は凄く、全体を一つにまとめあげました。ですから、天皇中心の国体思想とは相いれない《個人の自由な考えを基盤とするフィロソフィー・ブッダの根本思想-「自帰依・法帰依」も根源的なフィロソフィー=実存思想》は、日本では嫌われ避けられたのでした。
維新政府によって行われたスサマジイ歴史の改ざん=「全日本史を天皇の歴史にする」という負の遺産は、いまだに清算されていません。わたしたちが学校で習う日本史は、「○○天皇」の時代!?とされていますが、天皇という呼び名は、平安時代初期の村上天皇までで、その後江戸時代後期まで800年間以上は、天皇と呼ばれた人はいませんでした。京都のローカル王となり実権を失ったからです(光格天皇から復活して現在まで240年間は「天皇」の称号が使われてきました)。しかし、今日でも教科書はみな○○天皇と記載してます。そのこと一つが象徴するように、日本の歴史像はひどく歪んでいて、今もなお、わたしたちはその中にいます。
話が大きくなりましたが、少なくとも明治維新を礼賛するような歴史の見方から解放されないと、いつまでも薩長(とりわけ長州藩)による日本支配の思想=天皇教=国体思想から抜けられません。その象徴である「一世一元」という明治政府が天皇中心主義を国民に刷り込むために作った深謀遠慮(かつて日本の歴史に一度もなかった新たな制度)は、今もなお強力な力を放っていますが、ある人間と時代名を一つにする古代国家の思想を持っているのは、世界でただ一カ国です。「昭和時代」とか言いますが、天皇と呼ばれる人が現人神で主権者だった時代も、主権者が国民となる大転回となり人間宣言をした後も同じ昭和という時代だと思わせる「天皇刷り込み」が可能なのは、「一世一元」のおかげです。
この呪縛を解くには、俯瞰的に歴史と人物を知る視点が必要ですが、日本の近現代史では最も名の知れた半藤一利さんと博学博識で知られる世界史家の出口治明さんの対談本『明治維新とは何だったのか』-世界史から考える は、とても平明で、納得の見方を提示しています。呪縛を解き、人間味豊かな生(「形と序列」の二文字に収まるような文化を超えて)を日本の地に花咲かせるために役立つ優れた本と思います。
まずは、開国をなしたのは、明治維新側ではなく、江戸幕府=阿部正弘であり、開国に反対したのが維新側であったという「常識」くらいは弁えないと、話になりませんし、偶然により「小粒」な人間であった伊藤博文や山県有朋らが中心となった明治政府の所業を知らないのは、不幸です。嘘や歪んだ常識に囚われていては、未来は開けません。
開明的な俯瞰のための必読本と思います。楽しい公共社会をつくる共和制への移行のためにも。
武田康弘