おおもとから考える、既存の意味=表層的な意味を打ち破って考える、幼児の心と目を持ち続けるのが「哲学者」(フィロソファー=恋知者)だとすると、
大学内に哲学者はいるのでしょうか? いるのは「哲学科教授」ですが、立派に身分を保障され、銀行口座に毎月お金が振り込まれる人がフィロソファー=恋知者になるのは、🐪が針の穴を通るより難しいのではないかと思います。
ソクラテスはむろんのこと、近代西ヨーロッパの哲学(キリスト教化された哲学)の開祖であるデカルトも、近代民主政をつくる見事なアイデア(社会契約論)を出したルソーも、みな在野の哲学者であり、大学教授ではありません。強固なシステム内の存在は、フィロソフィー=恋知の実践をするフィロソファー=恋知者にはなれませんので、哲学者とはイコール在野の哲学者のこと、と思います。
ルソー(職業は恋愛小説家)に、「在野の」という形容詞句をつける? 在野の哲学者のルソー(笑)
カントからはじまりヘーゲルに至る大学内哲学は、遅れたドイツでのみ可能でしたが、それは自ら哲学の敗北宣言を出したハイデガー(ナチ党員でヒトラーの思想を支えた)により終焉を迎えました。
大学という安全地帯では、生きた哲学=恋知は不可能で、未来を拓くフィロソフィーの営みは、在野でしかできません。それはソクラテス(職業は石工)の昔からのこと。
武田康弘
☆恋知とは何か。