白樺教育館ホームページより。
日常にあふれる「民主制」を阻む装置、
そのひとつ「神社のお話」
元号、皇族への敬語、天皇称号の乱用、初詣や神棚の推奨、天皇を讃える国歌・「君が代」、国家神道と結びつけられた祭日、偏った歴史教科書、等々・・・
「民主政」を阻む装置、「国体思想の刷り込み」装置は21世紀になってもそこら中、日常の中にあふれています。 「神社」も実はそうした装置の一つであると自覚することは大事です。
洗脳されないために。
以下の論考は、私(古林)がFacebookに載せたものです。転載します。
上は北斎の「富嶽三十六景」から 三重塔が見える。 下は歌川広重の相州江之島弁財天開帳参詣群衆、参拝客で賑わう、かつての霊場 江ノ島の姿。歌川広重、19世紀。画像:東京国立博物館
「江の島神社」は明治の廃仏毀釈の後に作られたもの。 その前は、およそ1050年にわたって金亀山与願寺(よがんじ)という密教系の寺だったようだ。 祀られている弁財天は、もとはインドのヒンドー教の女神・サラスヴァティ(創造神ブラフマーの奥さん)で琵琶のような楽器・ヴィーナを抱えている。 サラスヴァティは仏教を守護する神として取り込まれ、中国に渡り、そしてこの国にやって来た。 習合の塊だ^m^
こちらは江戸時代の鶴岡八幡宮寺の様子。
仏教色の濃い堂塔は破壊され、看板からは「寺」の文字が削られた。なにしろお寺だったからね。
僧侶たちは全員、路頭に迷うか神官になるかを迫られ止む無く神官になった。
僧形八幡神像も主祭神のひとつだったはずだが、焼却されたのか叩き売られたのか不明である。(習合の典型である)僧形八幡神像は明治政府によってもっとも嫌われていたのでおそらく焼却されたのだろう。
ごく最近、筑波の椎尾山薬王院で修復された像が、鎌倉八幡宮寺から勧請された僧形八幡神像であることが判明した。室町時代のものである。これが八幡宮寺にあった主祭神の僧形八幡神像にちかいものなのかもしれない。
最近、椎尾山薬王院で再発見された僧形八幡神座像。
室町時代、鎌倉八幡宮寺から勧請されたものと考えられている。
廃仏毀釈の折、住職が自ら頭をたたき割って首と胴体を保存したのではないか、と推測されている。
廃仏に狂奔する役人たちを誤魔化すためだ。
八幡宮寺から勧請されたということは、鎌倉にあった僧形八幡神もこれに近い姿であったのではないか、と想像する。 撮影:古林
宝暦5年(1755)ころの筑波山中禅寺の様子。
廃仏毀釈によって、一部の神社を除き、ほぼすべて破壊焼却された。
仁王門は隋神門と名を変え、辛うじて残された。
ただし、仁王像の代わりにヤマトタケル云々の新しい像が置いてある。
本堂のあったところには、今は筑波山神社拝殿が、その左側にあった三重塔のあとには社務所ができている。
中禅寺は法相徳一による創建(9世紀初め)以来、1100年近く続いた寺である。 が、現在、神社があたかも太古の昔からあるように語られているのである。
天皇家ゆかりの碑や水戸劇派天狗党ゆかりの碑などがそこら中にある。昭和以降もそれは続いている。
主祭神のイザナギ、イザナミが正式に認められたのは、大正時代になってからのこと。 東国の古代に朝廷の神々がいるわけがなかろう。ここは蝦夷の国なのだ。 筑波男(お)の神、女(め)の神が崇められていたのである。
詳細は以下で。
【筑波山で起きた廃仏毀釈とその後
- 現代に生き続ける国家神道 -】
《神社の歴史と今日的意味》
2023年1月11日 古林 治
年末年始を迎える度、いつか気になる「神社」について簡単に記そうと思っていた。
ブラタモリの「江の島編」がきっかけで書くことにした。
だいぶ時間が経ってしまったけど (*´▽`*)
少々長いのでご容赦。
私たちが日常聞く、神社のさまざまな由緒は、中世以降に書き加えられたものが多い。
中には、明治、大正期に書き加えられたものも少なくない。
筑波山神社のイザナキ、イザナミが正式に主祭神となったのは大正時代だ。
ちなみに、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に出てくる鎌倉八幡宮は中世鎌倉時代、頼朝の命で僧侶によって建てられ、江戸時代初期にはさらに多くの堂塔が建造されて巨大な寺院群となっていた。
もともとが「八幡宮寺」なのだが、明治になって『寺』の文字は削られ、仏塔は破壊、移築、焼却の憂き目に遭い、仏像の類は焼却されるか、たたき売られるなどして多くの貴重な宝物類は散逸した。
ともあれ、八幡宮に祀られるカミサマも多様である。が、そのうちの一つ、仏教色の強い「僧形八幡神」は徹底的に排除されてしまったことは言うまでもない。
神社は、中国から入ってきた仏教(道教、儒教との混淆)の影響を受け、同時にそれへの対抗もあって、抽象的な存在だった神の人格神化、定住化、視覚化が進み、社(神社)が形成された。
つまり、国家形成のために太古からある自然信仰を仏教(+道教、儒教)の思考、様式を利用して取り込んでしまったのである。だからその意味では、神社は最初の国家主義の象徴であり、端から神仏習合・混淆であり、創建は古くとも7世紀、多くは8世紀以降のことになる。
ただし、「神社」も「神道」という語もずっと後、中世に作られた語である。当時、書き残された「神道」とは「じんどう」もしくは「しんどう」と読まれ、神を祀る営み一般の意だと言われる。
つまり、古来の信仰も道教も一緒くただったのだろう。
伊勢神宮は天武・持統朝期に創建されたが、最初の天皇である天武・持統夫婦とも実は道教〈神仙思想〉狂いと言われ、神=「天界の高級官僚」になれると信じていたようだ。
天武の和風諡号(しごう)は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひと)である。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(えいしゅう/残る2つ蓬莱、方丈)のことであり、「真人」とは天界(神仙世界)の最高位の官僚(神仙)のことである。 修練によって人間も神(天仙の格下の神仙である地仙や尸解仙(しかいせん))になれると信じていた。人神不分離の考えはここから来ているのかもしれない。
こうして神社創建が始まった。しかし、ほとんど(特に地方で)は朝廷の命にもかかわらず、神社は作られなかった。 「神は形のないもの」だったからであり、創建や維持管理のための費用を出したくなかったからであろう。
平安中期から朝廷による中央支配が弱まり天皇称号が消え中世に入ると、人々は皆自由な発想を始める。仏教・道教に記紀神話とを融合して自由な物語創作がブームとなった。
これは中世日本記と呼ばれるが、多くの神社はこの中世日本記というブームの中で作られたのであろう。ちなみに、最初の神道書なるものは僧侶によって書かれたのである。
こうして、さらに習合が進み、インドや中国の神さま、道教の神さま、日本古来の神さま、それに仏さまに観音さままで何でも神社の御祭神となっていった。 これが八百万の神々の由縁であり、わが国の伝統と呼ばれ、長らくその形をとどめていたと考えられる。
幕末、光格の時代に「天皇称号」が800年以上ぶりに復活し、明治に入って再び強力な政治的意図が入り込む。
神仏分離令により、もともと習合状態であった神社仏閣内の仏塔・仏像・経文は破壊焼却され、習合色の強い寺は神社に変えられ、由緒も書き換えられ、御祭神はすり替えられ、量産された鏡の御神体があちこちに配され、後の国家神道(万世一系神の国、国体思想)につながるように再編された。
つまり、明治になって神社という歴史と伝統は、国民を国体思想に染め上げるための洗脳装置に変えられ、国家主義の象徴になっていったのである。 ただし、今度は仏教・道教を介してではなく、儒教(朱子学)に強く影響された水戸学、平田国学、津和野国学とキリスト教という一神教を介在して再編され、父権的要素満載の新国家宗教となった。
こうして生まれたのが天皇現人神、万世一系の物語というイデオロギーを支える今日の神社である。
国民は生き神である天皇の赤子として位置づけられ、個人という存在は認められない時代を迎えることになる。
敗戦後、国家神道解体のため国家管理であった神社は宗教法人化された。一宗教法人として認知され、ほとんどは神社本庁のもとに組織化された。
だが、明治政府によって再編された神社の実態がそれ以前に戻されたわけではなく、内実はそのままであり、中にはさらにエスカレートして国家神道まっしぐらの神社もある。
神社は歴史と伝統の象徴であるかのごとく思っている人は多いが、その意味はまるで異なってしまった。明治政府の意図が深く浸透し変質してしまった神社を単なる習俗と軽んじて誰も問い返さないのは非常に危険である。侮ってはいけない。
今の神社の姿が日本古来の伝統・信仰を現わし、万世一系の天皇の国・神の国だという空気感(国家主義の土台)が知らぬ間に、刷り込まれていくのだ。
伊勢神宮(アマテラス)を頂点とする序列化された神さまたちの存在は、私達人間社会の序列化も当然視することになる。
洗脳は深刻だ。 現在の自民党国会議員はほぼ全員、神道政治連盟所属であり、今日の神社の在り様を全面肯定支援していることをお忘れなく。
そういうわけで、私は政治的意図にまみれた神社にはあまり近づかない。
気持ち悪さが先立つのである(*´▽`*)
ちなみに、ブラタモリ『江の島編』に登場する江の島神社も、よくそばまで行く筑波山神社も明治になってから作られたもの。いずれも国家神道敷衍のための存在であったし、いまなおそのような存在である。
タモリさん、突っ込みが足らんよ!
明確な自覚がないと皆、知らぬ間にあのおぞましい国体思想に取り込まれてしまう。
要注意!
ちなみに、「神仏習合・混淆」は明治政府による造語であり、あたかも、本来は神道と仏教が別のものとして存在したかのような倒錯をもたらしてしまう。
神仏分離を本気でやれば、神社そのものは消え失せ、残るのは太古からある自然への畏敬の念だろう。
今日言われる日本独自の神社信仰なるものは国体思想・国家神道によって歪められたものなのである。