「天上天下唯我独尊」として知られる釈迦の根本思想について、以下の説明はとても優れていますので、ご紹介します。釈迦の思想=仏教は、宗教ではなくフィロソフィだと言われる訳がよく分かると思います。一神教(いっしんきょう)の呪縛からの解放は、全人類的課題です。いま、ブッダの先見性と根源性を深く自覚したいと思います。
「 私たち一人ひとりは、他の誰とも代わることのできない、唯一人の者として誕生しました。私が唯一人の者だということは、他の誰とも比べる必要がない私である、ということを意味します。ですから私たち一人ひとりは、それぞれ尊いといえるのです。
しかし、同時にまた、私たちが生まれたということは、他の人とさまざまな関わりをもって生きる者である、ということも意味しています。私たちは、そういう関わりのなかで、常に自分と周りの人とを比べて生きているのです。
ブッダは、私たちが他の人々との関わりのなかで陥っていく生き方を、「地獄・餓鬼・畜生」という迷いのあり方として明らかにされました。私たちは、そのような迷いのあり方のなかで、かえって自分の尊さがわからなくなり、そしてまた、周りの人々の尊さをも見失ってしまっているのです。
ブッダは、釈迦族の王子シッダールタとして誕生しました。つまりブッダもまた、一人の人間として、関わりのなかを生きる者として誕生されたのです。ブッダは、さまざまな関わりを生きていくなかで、さまざまなできごとに出会い、人間は何のために生まれ、何のために生きていくのかという問題に直面されました。その問題に向き合うなかから、ついに「唯我独り尊し」(ただわれひとりとうとし)と、尊い者として誕生した自らを発見されたのです。
「尊い」ということは、私たちにとって考えるまでもないような当たり前のことではありません。むしろ私たち一人ひとりが、それぞれの人生のなかで見つけ、確かめていかなければならないことなのです。そのことが「吾当(われまさ)に世において無上尊(むじょうそん)となるべし」「私は人生において、この上なく尊い者とならねばならない」という言葉で確かめられているのです。
私たちがブッダの生涯から学ばなければならないのは、「唯我独り尊し」という私が明らかになる道です。私たちは、日ごろの生活のさまざまな経験のうちに、そのことを問いかけられているのです。その問いかけを通して、私たちは、何ものとも比べる必要のない自分に目覚めていかなければならないのです。」 『ブッダと親鸞 教えに生きる』(東本願寺出版部刊)より。
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fbに、すぐに優れたコメントが寄せられました。
「人は生まれながらに
”唯我(誰とも比べることができない、比べる必要のない唯一の存在)”
だけれど、ただ漫然と生きていても
”独尊(他の誰でもない、私ならでは尊さ)”を身につけることはできない。」(佐藤宏)
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「一神教のドグマでもなく、果てしない相対論でもなく。」(takayuki kawanisi)
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武田康弘
尾崎放哉の「爪切った 指が五本ある」の気持ちがよくわかりました。