サイトウキネンの指揮者で、ボストン交響楽団やウィーンフィルのトップを務めた小澤征爾さんが、スイスで記者会見し、安倍政権の集団的自衛権(海外に派兵する権利)の政策を批判しました(いま、世界的レベルの文化人は、みな揃って安倍批判を展開しています)。
〈注〉ウィーンフィルは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーの中から構成され、オペラでなく管弦楽曲のみを演奏するウィーンフィルには音楽監督ないし首席指揮者は置きません。小沢は、ウィーン国立歌劇場管弦楽団の音楽監督でしたので、ウィーンフィルのトップと言えます。
脱線しますが、小澤征爾は、10年間、他に得難い音色で世界一の人気を持つウィーンフィル(今年10月来日)のトップを務めたわけですが、まさか日本人がウィーンフィルのトップになるとは、日本人の誰ひとり夢にさえ見なかったことでした。いまさらながら、まさか!
ああ、そういえば、長いことベルリンフィル(世界最高のアンサンブル)のコンサートマスターを務めたのも安永徹でした。小沢も安永も斉藤秀雄の愛弟子で、もし斉藤がいなければ、いまの日本の音楽界はなかったと言えます。まったく凄い男がいたものです。斉藤も小沢もNHK交響楽団(斉藤はその前身の新交響楽団)からパージされたのでしたが、これも面白いエピソード。
戻します。以下は、今朝の東京新聞の一面です。
わたしの思いを以下に書きます。
安倍支持者の47パーセントの方々、
その人たちは、これから歴史の審判が下り、ひどい現実に起きたとき、どう責任をとりますか。
15年戦争のときも、その支持者は責任をとっていませんが、
いまは、主権在民の日本国憲法下です。
主権者はわたしでありあなたなのですから、
安倍支持者のあなたには、重い責任がのしっかかってきます。
安倍政治に反対していないあなたは、安倍を支持したことをクリアーに記憶しておかないといけません。
主権在民の民主政では、結果に責任を負うのは主権者であるわたしでありあなたです。責任は、国民にあるのです。これは、民主政社会の原理です。
NHKなどのマスコミで政府宣伝の誘導ニュースをつくっている人の責任はさらに重大です。
武田康弘
舛添前都知事はエリートとされますし、官僚たちはエリートです。
日本人の「東大教」・「東大病」は、世界中で有名です。
東大に入ることが日本人の勉学の目的です。そこを出れば自動的に「エリート」として遇されます。
家族で回転寿司に行って支払いは勤務先に廻す首長。
視察と称し物見遊山で、文字どおり外「遊」してくる官僚や政治家。
家族で回転寿司や温泉地に宿泊くらいならだけならかまいませんがね。
どうせ泊まるなら、電力を担った結果エラい目に遭った地方に行けばいいのにとは思いますが。
最近のトップクラスは命掛けてる人はいなさそうです。
昔のトップクラスならせいぜい防弾チヨッキ一枚でSPは付けないと思います、女のところに行けなくなるし。
偉い人が乗る車は防弾ガラスなんですかね?
ウルグアイのトップにいた方は、かなり昔に友人から貰った大衆車に乗って町に買い物に行き、困ってる他国のヒッチハイカ-を家に泊めたそうですが。
まあ基本的に穏健派とはいえ革命家で、ヤバい人達に揉まれてきたから出来たのでしょうが。
エリートになる権利は全ての人にあった方がいいと思いますが、エリート教育の中にそれなりの覚悟を持たせる教育、場合によってはあの世とこの世の境で綱渡りさせるような教育も必要かもしれません。
死が身近にあり、「死にたくない」と思う時を過ごし、国民を死に追いやる失政には自らの命を以て償う覚悟をもてば、少なくとも国民を「死」に向かわせるような政策は取らないと思います。
東京裁判の判決が出た時の映像を見ると、大半の戦前のトップにはその覚悟を感じます、やったことの良し悪しは別にして。
与党も野党も猿山のボス争いみたいなのばかりで、国益、アジアの利益、有色人種の利益、人類の利益、生物の利益に目がいかないみたいですから無理ですね。
考え方はいろいろ有るかと思いますが、音楽を初めとする芸術の分野は、戦争と相容れないです。
日本は今まで戦争をしないできました。
なぜ今になって戦争をする国に舵を切るのか分からないです。それもあんな形で。
「誰の子どもも殺さない」胸に落ちます。
一例ですが、当時も石橋湛山(戦後第55代総理大臣)のような人もいて、新聞(東洋経済)も出していたのです。
自分自身の思想と態度や行為について振り返る=検証するという作業は、極めて重要です。それを書くだけでも、大きな価値があります。
そういう地道な捉えかえしが地に足が付いたよい生き方を生み、価値の高い社会をつくります。
一番日本人に欠けているところでしょう。
ちなみに,どういった責任の取り方があると思われます?
敗戦でこてんぱんになったので,それで十分だと思いますが。