社会契約説(論)の中心思想は何か?
これは明瞭で、人民主権です。
イギリスのロックもフランスのルソーも、国を治める最高の力=主権は人民にあるとしなければ、新しい社会を拓くことはできないと確信しました。その根本思想に基づいて社会の仕組みをつくらなければならない、と考えたのです。
社会契約とは、通常の意味でのさまざまな契約(ローン契約とか保険契約とか・・)の下にある「根源的契約」です。まず、一人ひとりの人間を自由と責任をもつ「個人」とし、その個人が互いを対等で自由な存在として認め合うという約束=契約を結んだものとするのです。その契約(根源契約)が成立することでルールは始めてルールの正当性をもつことが可能となります(したがって、上位者が勝手に決めたルールは、根源違反のルールで、ルールではありません)。
現代の常識では当たり前に思えるでしょうが、社会契約という思想は、われわれの近現代社会を成り立たせている原理です。クルマ社会になってからは信号機のシステムが交通の原理となっているのと同じで、その原理がなければ、社会を内側から支える秩序は消え、個々人は色を失います。
一人ひとりの人間がそれぞれの「よさ」を開き、悦び・幸福を求め、充実した生を送ることを可能にする「社会」(=公共性・互助性)の原理、それが社会契約という根源契約の思想なのです。
したがって、2005年に自民党の国会議員が社会契約説(論)に則らない新憲法案をつくろうと考えていたとは呆れ返る話としか言えませんが、昨年・2013年には、その自民党の新憲法案が現実に現れたのですから、驚きです。これは、人類が長い間かかって到達した社会思想を骨抜きにするものですが、同時に、第二次大戦後の世界秩序に挑戦する「日本主義宣言」とも言えます。
次回は、その舞台裏(「個人」という概念を否定する安倍首相の想念)を書きます。
武田康弘
まず、以下のblog記事をお読みください。
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/94f63b23d59c2fdb43e04510852b5f87
自然状態の放棄という意味は、人権の放棄ではなく、【人権を成立させる条件】なのです。
ルソーは文学者であり、レトリックが多様されていて、誤読されることが多いです。
なお、4年ほど前、わたしは、「参議院行政監視委員会調室」の客員として官の職員の方を対象にルソーの社会契約論を中心とした哲学講義をしました(竹田青嗣さんと二人で視点を変えて立体化させる試み)。
ルソーにおいて国家は自然状態の一切の権利(人間の権利=人権)を放棄することのうちに成立します。
そのため「国家が命じれば市民は死ななければならない」とまで言い放ちます。
人民主権がその根拠となります。主権は最高権力ですのでそれに逆らうことは誰にも許されないのです。人権は放棄しているので逆らう理由になりません。人権を盾に国家にたてつくことが許されれば主権の最高性を否定することになり、矛盾してしまいます。
論理の一貫性を追求するあまり民意さえあればなんでもまかり通る可能性を孕んでいるので、ルソーは人権派から嫌われるのです。
『社会契約論』は薄い本なのですぐに当該箇所は見つかると思います。