わたしは、自分の体験から自分で考えたことを言い、行為し、生きてきました。どこにも属さず、ずっとひとりでね。
金持ちと、政治権力者と、学的権威者と・・・幅広く友人関係もありますが、まったく忖度しない、というか忖度するとはどういうことかも知らず(笑)、他者に頭を下げたことはありません。
それはふつうのことで、こどもたちを見れば分かります。金持ちだから、とか、その家の人が社会的地位が高いとか、で、こどもは友達にはなりません。その子と気が合うから友達になります。
大人でも同じこと。お金や名誉や肩書を所有していようが、しまいが、それはどうでもよいことで、友人になるのは、その人間が気に入ったからです。もしそうでないなら、堕落した人になります。
そんな人生を歩んで死んでいくほど愚かで不幸なことはなく、人間として生きる意味がありません。モーツァルトもベートーヴェンも、アインシュタインも、エルンスト・アッベも。志賀直哉も柳宗悦と兼子も、石橋湛山も、800年前に遡れば北条政子も、古代までいけば、ソクラテスもブッダも老子も、20世紀ではサルトルも、存命者ではチョムスキーも、20世紀の大指揮ではクレンペラーも、いまはクルレンツィスも、具体的に書きだしたら、紙面がいくらあっても足りません。有名人でなくとも、いくらでもいます。自分の人生を生きた人は、数限りなくいますが、そうでない人もまた数限りなくいます。
どうするかは自分自身の問題ですが、納得をうる意味充実の生を歩むのがほんとうの人間の生き方だとわたしは思っています。自分に依り生きること、それはブッダの遺教(自帰依ー法帰依)でもありますが、自己納得と異なる生は不幸でしかありません。誰も幸せにしません。外なる価値ではなく、内から内発的にです。他者との比較ではなく、自分自身として生きることです。
武田康弘