わたしは、こどもたちと毎日接しています。彼らの話しを聞くと、小学5年生からディベートの授業が行われているのですが、その模様には頭を抱えてしまいます。
猫がいいか、犬がいいか。
山がいいか、海がいいか。
ディズニーランドがいいか、ユニバーサルスタジオがいいか。
高校生では、
大きな政府がいいか、小さな政府がいいか。
これを二手に分かれて言い合い、勝ち負けをつけるのだそうです。
これは、古代ギリシャでのソフィストの言論技術ー「勝てる言い方」の習得と同じですが、それと闘い、なにが「ほんとう=真実」なのかを求めての問答法=ディアレクティケーを実践したのが、ソクラテスでした。
ソクラテスは、もっともらしく見せる言論、勝ち負けを競うための言論、人を酔わせるような言論を厳しく戒めました。プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』(ソクラテス思想の芯を現わした代表作)でクリアーに説明されていますが、まず、言葉の意味をしっかり定義し、総合と分割の方法により、話を一つの身体のように全体像を示す必要があります。
それは、なにがほんとうかを求める言葉=思考の訓練のために必要なので、それがフィロソフィー(直訳は「恋知」・従来の邦訳は「哲学」)の営みです。
勝ち負け優先ではなく、なにがほんとうなのだろうか?と問う心=姿勢は、人が生きる上で何よりも大切です。真実についての答えは、あらかじめ決まっているのではなく、問答的思考(自問自答を下敷きにし、問い・応える)により、段々と開示されてくるもので、その営みが自他に深い納得をうむわけです。
そういう考え方と方法によらないと、言葉は、生きて輝きません。自他の生を豊かにするよきものとはなりません。ディベート(ソフィストの手法)の訓練は、ディアレクティケーを身に付けるのとは逆に、【形式論理】の組み合わせで、相手を黙らせる技術をもつ悪しき人間をうむだけです。
AはAでありBではない、という単純な思考は、ある一点だけで見ると反駁不能になりますので、それを組み合わせると、一見、もっともらしく厳密に見えるな理屈がつくれます。
しかし、現実は、Aは時間の経過とともにAではなくなりますし、また、同じものでも量が多いと質を変えてしまい、AはAではなくなります。また、部分を組み合わせても全体にはならず、全体を俯瞰できなければ部分の意味は分かりません。逆に、全体は適切に分割されて分析されないと混沌のままです。
こういう優れた思考は、フィロソフィの実践がないとできず、ディベートは、それを阻害する役割しか果たさないのです。
具体的な実践例としては、アメリカの公教育の一部で行われている「6才からのソクラテス教室」であり、フランスの幼稚園の一部で行われている「こどもの哲学対話」です。日本でもそのような取組をしないといけないはずです(白樺教育館のソクラテス教室では何十年も続けています)。
ネトウヨ(ネットウヨク)と呼ばれるのは、戦前思想につく人で、安倍首相を熱烈に支持する若者ですが、政治的には右翼ではなくとも、ネトウヨ的な思考=単線的、平面的な形式論理でしか考えられない人がとても多いのが現実です。学校でのディベート授業をやめ、本質に向けて思考するフィロソフィの実践を始めなければ、日本の未来は拓けないと思います。
武田康弘
ディベートに関して私もそう思います。まだ、勤務時代でしたが今から20年以上も前になりますが職場研修で初めてディベート研修を受けました。その時からディベートで仮の結論を出してそれを正当化する弁術技法というか変な理屈付けでも、とにかく相手に勝つという研修を受けました。馴染まなかったですね。ともに議論し合ってその時点での正しい事実を見つけるというのではないので、これはなんて事をするのだろうという感じでした。同じ頃だか、評価主義というのが職場に持ち込まれ、これも何だという思いでした。と考えるとここのところの傾向は働くものに取ってなんともやりきれない変な論理が持ち込まれているということになりますが。
やめなくてもいいと思います。ただ、やり方が問題です。例えば、時間を切り立場を入れ替えるのです。一つの問題に両側面からの視点を持つ訓練は、価値観の固定を避けられるのでは、と考えます。
次に、民主主義の基本は合意形成ですから、論破を目的とするのではなく、どこに落としどころがあるのかを探る指導が必要です。
ディベート自体は大いになされるべきと考えます。
私が、中学生の時のディベート授業も同じ物でした。当時はなんの疑問もありませんでしたが。(ううっ恐ろしい!)
こちらの意見は正しくて、あちらの考えは間違いだ・・・なんて思考停止を促してしまえば対象物のそれ以上の発展は望めませんものねぇ・・・
この世にはいまだ謎な事が多く、答など分からないものもあるかと思います。
そうなれば、暫定的に決めないといけないのではないのかと思います。
今回の安保法案についても一方は戦争をしないために、何かあった時に迅速に対応するようにするものだと、おらは捉えてます
しかしもう片方は大声で、戦争法案反対と叫ぶ姿だけの印象、具体的にどのあたりが戦争なのか、何に対して反対なのか、そういうものが伝わらずただ大声で反対としているだけではディベートも出来ないと思うのです。
ですから、やはりディベートの力というものは2つの意見を聞きどちらがまともなのか、正しいのかが身に付くものなのかも知れません
本文にも書きましたが、政治的意見はどうあっても、思考法が形式論理ではとても困ります。
議論には、全体を俯瞰する知性が必要で、その立体視を可能にするのが、フィロソフィ-としての頭の使い方と言えます。フランスの幼稚園児やアメリカの小学生の実践(まだ一部ですが)は、とても参考になります。
ディベート的知性(平面知)で現代社会の問題が処理されるのでは、なんとも恐ろしい。
(一般論としては、暫定的に決めるのは必要と言えますが、【違憲】では民主社会の基本原則を踏み外していますので、議論の土俵がありません。「根源ルール」に反しているのです。)
日本には、昔から言い習わされている。
「三人よれば文殊の知恵」という教えがありますが、
これなんかは、ディベートとは違うもうひとつの思考方法だったんじゃないでしょうか?
衆知を集めて共通のより広く洗練された知恵と認識の世界に
共に行き着くような思考が日本にも普通に存在していた証拠だと思います。
最近はディベートとプレゼンばかりでこういう考え方をする迷い系の柔軟な思考者に出会わず残念に思っています。
ディベートやプレゼンはビジネスや軍事の世界から生まれた知の集約技術だと思うので、世界を豊かに認識したり、問題点がどこにあるのかを発見したりするような思考には向いてないんです。
不要物を落ちこぼして集約する思考と落ちこぼれたものを発見しその中に未知の可能性を探る思考の違いと言ったらいいかと思います。
ディベートもいいけどこう言う日本人の伝統に則った思考も学校で教え方がいい、いや絶対に入れるべきです。京大人文系の学者、今西、梅竿、川喜田氏や禅の公案なんかは明らかにこっちの迷い系だと思います。
ブログ記事から思いついた勝手な感想です。
優れたご意見に感謝します。
「ディベートやプレゼンはビジネスや軍事の世界から生まれた知の集約技術だと思う」
まったく同じ思いです。
マシュー・リップマンが提唱した「6歳からのソクラテス教室」(BBC制作)は、こどもたちがためらわずに迷いへの世界に入る面白さですし、フランスの幼稚園での試み(DVD)もそうです。
決めつけとは正反対。