「何卒、先生、主義の為めに御奮闘を願ひます」慇懃に腰を屈めたる少年村井は、小脇の革嚢緊と抱へて、又た新雪踏んで駆け行けり、
中学の校帽凛々しく戴ける後姿見送りたる篠田は、やがて眸子を昨日己が造れる新紙の上に懐かしげに転じて「労働者の位地と責任」と題せる論文に一とわたり目を走らせつ、心は今しも村井が告げたる二面の夜中電報に急げり、
「日露外交の断絶」テフ一項の記事と相並で、篠田の眼を射りたるものは、「九州炭山坑夫同盟の破壊」と題せる二号活字の長文電報なり、篠田の心は先づ激動せり、
……憲兵巡査の強迫は正面より来り、黄金の魔術は裏面より行はれたり……
首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴甚しく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
「首領の捕縛」「公権の乱暴」「婦女小児の負傷」而して噫、「維持費尽く」
新聞右手に握り締めたるまゝ、篠田は切歯して天の一方を睨みぬ、
白雪一塊、突如高き槻の梢より落下して、篠田の肩を健か打てり、
午前七時半、警官来れり、
今や篠田の身は只だ一片の拘引状と交換せられんとすなり、大和は其の胸に取り付きて、鏡の如き涙の眼に、我師の面を仰ぎぬ、
篠田は徐ろに其背を撫しつ、「君、忘れたのか――一粒の麦種地に落ちて死なずば、如何で多くの麦生ひ出でん――沙漠の旅路にも、昼は雲の柱となり、夜は火の柱と現はれて、絶えず導き玉ふ大能の聖手がある、勇み進め、何を泣くのだ」
轍の迹のみ雪に残して、檻車は遂に彼を封して去れり、
――木下尚江「火の柱」