
犬は近代文学においても人間の思い上がりによってもたらされる悲惨そのものなのだが、それは人間にかなり接近していると言わざるをえず、作家たちは自縄自縛だと言えなくはないのだ。動物という観念のもとでは、比喩的表現は自由を失う。だから、今度は人間が動物のふりをし始める。どうでもいいとはいえ、更に悲惨である。基本的人権は基本的に人に対してしか使用する気は起こらないものである。
思ひぐまの 人はなかなか なきものを あはれに犬の ぬしをしりぬる
確かに人に対する細やかな心を人間は簡単に棄ててしまう。却って犬の方が……という訳だが、そんなことはない。こういう「忖度はオモテナシ」みたいな奴隷根性で生きていると、他人にもそれを要求するようになるのである。こういう輩は『平家物語』の皆々様のようにさっさと討ち死にした方がよいが、『南総里見八犬伝』の作者の如く粘っこい生への執着があると、人の死に方も手が込んでくる。
痩せた犬に対し、「戦功をあげたら魚肉食べ放題だよ」「職をあげようか、領地をあげようか、そんなつまらんものじゃなく、娘の伏姫をあげようか」と調子に乗った里見義実が言うのだが、この犬は職や領地みたいな観念はわからんが、女の子は分かるのだ。
このときにこそ八房は、尾を振り、頭をもたげつつ、瞬きもせず主の顔を、熟視てわわと吠えしかば、義実ほほ、とうち笑ひ、「げに伏姫は予に等しく、汝を愛するものなれば、得まほしとこそ思うらめ。こと成るときは女婿にせん」と宣はす。
実際、ムツゴロウさんは、熊に惚れられて交尾を迫られたことがあったらしいし、犬が屡々人間に迫っているのを見た人も多いことであろう。なぜこういう風景が我々には必要であるかというと、藤村みたいな自意識が生じる可能性があるからである。
急に日が濃く窓から射して来た。何となく部屋の板敷の日蔭に成つたところは寒く感ぜられた。私は耳が鳴つたり腰が痛んだりする自分に返つて、それが身に附き纏ふ持病のやうに離れないことを思つて見た時は、一種の悪寒を覚えた。洋食の出前持は堅い靴の音をさせながら溝板のところを出たり入つたりして居た。私は食卓の布の上に爪の延びた手を置いて、あの前垂掛で雑巾を手にしたやうな無智な下婢達と犬とから、斯うした自分を先づ教育されたことを考へて、思はず微笑まずには居られなかつた。
ボーイは熱くした紅茶をこぼさないやうにと用心しながら私の前へ持ち運んで来た。うるさい二匹の犬は私がそれを飲み終るまでも側に附いて眺めて居た。
――島崎藤村「犬」
これが太宰治になると、女中が自分よりも幸福なのが許せんとかいって棒で草むらを虐待したりするのであるが、考えてみると、藤村は自分の悲惨を望遠鏡みたいなものから外側から眺めているところがある。「うるさい犬」こそが藤村そのものなのだ。思い上がっているとはいえ、こういう人間は何かをちゃんと見ている可能性がある。太宰はその点、自分、つまり読者に引きこもっているので肝心なところがみえない、というより、見えないふりをしてしまうのである。だから「犬」が嫌いだったり、動物の交尾をみて人間失格したり、といったことをフィクション上に書いてしまうわけである。我々はつねに犬に娘を掠われていると思っていた方がいいのである。