
玉垣は朱も緑も埋もれて 雪おもしろき松の尾の山
これは、「すみよしの松の下枝も神さびて みどりにみゆるあけの玉がき」(後拾遺、蓮仲法師)がふまえられているとも言うが、ふまえていることがすなわち、住吉神社の神域を想起させるとしたら、この和歌それ自体は存在していない。日本の文化エリートは個的なエリートではなく、ふまえていることが得意な一蓮托生的な人たちであった。だから、そういうものが続く限り、文化の洗練とエリートたちの人としてのくだらなさは続く。心配するには及ばない。
底光りのする空を縫った老樹の梢には折々梟が啼いている。月の光は幾重にも重った霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火のように輝していた。屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも三重にも建て廻らされた正方形なる玉垣の姿と、並んだ石燈籠の直立した形と左右に相対して立つ御手洗の石の柱の整列とは、いずれも幽暗なる月の光の中に、浮立つばかりその輪郭を鋭くさせていたので、もし誇張していえば、自分は凡て目に見る線のシンメトリイからは一所になって、或る音響が発するようにも思うのであった。しかしこの音楽はワグネルの組織ともドビュッシイの法式とも全く異ってその土地に生れたものの心にのみ、その土地の形象が秘密に伝える特種の芸術の囁きともいうべきであったろう。
――永井荷風「霊廟」
心の底から西洋的なものを学んだ荷風は心を急かしてワグナーやドビュッシーではないものを見出そうとするが、彼自身が孤立した耳と目を持ってしまっている。それは西洋音楽のそれではないが、日本のものとも違うものであったような気がする。わたくしは、西行よりも荷風の方が遙かに好みである。