★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

罪や得らむと思ひながら、またうれし

2020-03-01 22:40:19 | 文学


物合、なにくれといどむことに勝ちたる、いかでかはうれしからざらむ。また、我はなど思ひて、したり顔なる人、はかり得たる。女どちよりも、男は、まさりてうれし。これが答は必ずせむと思ふらむと、常に心づかひせらるるも、をかしきに、いとつれなく、何とも思ひたらぬさまにて、たゆめ過すも、またをかし。

このひでえ記述は、一般に「うれしきもの」と呼ばれている段の一節である。

物合のゲームで勝ったときは嬉しい。男を打ち負かした時の方がうれしいね。相手がお返しするぞと気をはっている時もなんか笑えるし、平気な顔をして何とも思ってないふりをしながらこちらを油断させている様子もおかしい。

確かにそうであるが、こういう意地悪な視点は、彼女含めた集団がまともな倫理を持っている場合による。「仁義なき戦い」をみてみたまへ。「こら清お前いかさまじゃナインかこ×すぞ」みたいなことを叫び出すやつが混じっていたら大変である。もっとも、清少納言の性根はどっちかというと仁義なき戦いの人達みたいなところがあり、なよなよした紳士面の同僚や男たちを尻目に内面の声が響き渡る。

にくき者の、あしき目見るも、罪や得らむと思ひながら、またうれし。

憎らしい者がひどい目に遭うのも、バチが当たるんだろうなあこの屑にはよ、と思いながら、またこれがすごく嬉しい……


利慾よりならず、名譽よりならず、迷信よりならず、而して別に或誤謬の存するあるにもあらずしてこの殺人の罪を犯す、世に普通なるにあらずして、しかも普通なる理由によつてなり、これを寫す極めて難し

――北村透谷「罪と罰」の殺人罪


罪を得たらもうオシマイなのではない。ここから「罪と罰」の世界が始まるのだ。むろん清少納言がそんなことを知らないことはあるまい。しかしドストエフスキーは罪が罰を受けない世界を想定し粘り強く考えることにしたのであった。もっとも、そうしたことで逆にみえなくなってしまったものもあるのであろう。透谷を読んでいるとそんな気もしてくる。


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