★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

明らかな嘘の道徳性

2024-04-29 23:58:55 | 文学


されば石猴生長し、峰に遊び洞にかくれ、鶴に伴ひ鹿とたはむれ、歳月を送りけるが、ある時間と共に飛泉の下に遊び居りしに、一つの言を出し、「誰にてもあれ、此飛泉の水を鑽り、中の形を見る者あらば、拜して我徒の王とむべし」と云ふ。時に石猴すすみ出で、「よく是を見届けん」と云ひもあへず、身をとらせて瀑布の中へ飛入ったり。扨頭をして見まはせば、瀧の内は却つて水なく前に鐵の橋あり。其傍に石礍あり、「華果山福地水簾洞洞天」といふ十字を鐫りたり。橋を渡りて行けば、数歩朗らかにして人家の住居に同じ。石猴見終りて、再び瀑布の外に出て、群にむかひ、しかじかのさまを物語り、「是我輩の安居すべき究竟の處なり。我にしたがひ瀑布の中へ来れや」とて多くの猴をともなひ、かさねて瀧の内に案内しければ、猴ども内のありさまを見て大きに悦び、先に約せしごとく石猴を拝しての群猴の中の王とす。

漱石とかが文学論で引いたりする春秋左氏伝だが、妙に現実を知りましたみたいな感情を起こすもので、正直短絡的な人たちには危険な気がした。具体的に言いませんが、という説教のほうが有効なときがあるというきがする。で、虚構は虚構でこの程度に大げさな方が良い。明らかに嘘だからである。そのパロディである「ドラゴンボール」でさえ嘘なのに、なぜこれが案外道徳的な作用を人々にもたらすのか。

このあいだ、「推しは目覚めないダンナ様です」という本を少し読んだ。低酸素脳症の夫の看病記だが、題だけ見ると、一向に悟らないだめ夫が好きですみたいな話かと思った。世の中、目覚めない派と目覚めよ派に分かれている。前者も後者も意固地になって目覚めなかったり目覚めたりするわけだが、いっこうに人生がうまくゆくかんじがしない。

最近大井廣介をかなり読んだが、もう誰かが研究しているんだろうけど、すくなくとも彼は自分の本が結構売れたと認識していた。そういうことを自分で書いてしまう男であった。どうも、こういう嘘っぽい「虚実の皮膜」芸がいまのような状況の原点にある気もするわけである。大井はなぜ、無駄なことは書くまいというストッパーが働かないのであろうか。太宰や花田や安吾などの一見饒舌な人たちへのルサンチマンなのかも知れない。

そういえば、つい「神聖かまってちゃん」の劔樹人『あの頃。』というのを買って読んでしまったが、無駄のない文章だった。これに比べると、無駄のある文というのが、更にいらない紋切り型を招き寄せる事態をおもわせる。無駄な文とは嘘のことである。

横道誠氏の『発達障害者は〈擬態〉する』のなかにでてくる、オーケストラ部の先輩から古文でメールが送られてくるというエピソードはよかった。我々の世代は電話かほんとの手紙しかありえないけど、メール以降の世代は和歌の贈答みたいなことができる。かんがえてみると、どうみてもツイッターは和歌や俳句の普及に寄与しているし、インテリ?が日常的に大喜利をするようになった。そのかわりに、無駄だけで出来ている文だけでも平気で書いてしまうようになった。すごく乱暴に言えば、文章というものが何処まで行っても「そもそも」難しいのだということを知らぬ人たちが、文章を書くのに躊躇いをモテなくなってしまったのである。文章を上手く書く方法教えてという問は成り立たない。

そうすると、人々がほとんど虚言癖があるという風に見えるようになってくる。もう研究があるとは思うが、自意識過剰や文学へののめり込みと虚言癖との関係はすごく重要であった。〈擬態〉といっても〈演技〉と言っても〈反映〉といってもよいが、虚言みたいな観点がすこしでもないといけないような気がしたからである。しかし、われわれにそういうひっかかりがなくなっているのはなぜであろうか。上の横道氏の本を構成する、発達障害者達にもそのひっかかりがない。われわれはおそらく言葉との関係に於いて、全体として健常者でもあり発達障害でもあるような段階に入ってしまったのであろう。


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