★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

化して一つ石猴となれり

2024-04-28 23:23:35 | 文学


混沌の初、其状卵のごとし。陽気の軽く清るは上浮みて天となり、陰氣の重く濁るは下凝て地と為る。其中に万物ことごとく發生し、人を生じ獣を生じ禽を生じ、天地人の三才それぞれに位す。盤古氏の開辟せし時、世界わかれて四大部州となれり。則其隣の名を東勝神州、西牛賀州、南贍部州と號す。其東勝神州の海外に一つの國あり、名を傲來國といふ。此海中に一つの山あり。華果山と號く。山の上に一塊の軽石あり、開辟以來天地の精氣を持ち、仙胎を育めり。ある日此石忽迸裂けて、毬の如きなる石卵を産けるが、化して一つ石猴となれり。此猿眼より金色の光を發ち、上りて天に輝きしかば、此時上聖玉帝天上の寶殿にましまして、此光を見てあやしみ給ひ、千里眼順耳風の両大将を召して看せしめ給ふ。

世間ではいいかげんなことに、子どもが希望とか言っているが、世の中がその子どものせいでよくなったためしなどない。だんだん若くなり赤ん坊に戻るならともかく、普通に絶望しかないにきまっている。自分が子どもだったことをわすれたのか。――うすうすこういうことに気付いているからこそ、スーパー赤ん坊というものを人々は構想する。上の孫悟空なんかはそれであろう。とてもじゃないが、人からこれは生まれない。とりあえず、世界のはじめから説き直して石猴(猿)を誕生させるしかない。SFもそういう絶望から出発しているので、やたら「世界観」をつくりたがる。そして世の劣等生達もそういうことを模倣したがる。

例えば、今だったら私の小児喘息は、精神的原因を疑われたかもしれないが、そんなことになったらもっと親に心配をかけることになり、それを反映してわたしの症状までエスカレートしたかもしれない、だから、昔の診断でよかったと思う。――こんなもやもやしたものが人間の人生であり、石猿で眼がぴかーっと光ったりしないのだ。

悟空誕生の場面で、四大部州を示しているのも、単に世界の説明ではなく、それぞれの世界については作者もなんだか知らないよ、という姿勢のあらわれではなかろうか。その部州それぞれが、なんであかの他人をもてなさなきゃならんのだ、みたいな根性で成り立っている。だから三蔵法師一行はいちいち妖怪に襲われる。しかしこの妖怪とは、その土地の文化のことであろう。いまみたいに、観光客が生きて還ってこれるのは文化が消失したということだ。

いまどきの人間が勘違いしているのは、いまのほうが「言論の自由」があるという把握である。確かに昔は讒謗律とか治安維持法とかなにやらがあったが、「だから」黙らなければならないと考えるやつらは今よりも少なかったとしか思えない。戦後民主主義は、民主主義的な人間ではなく、ある意味一種の「善人」をつくりあげた。そういう「善人」の広まりを「自由」と錯覚しているだけなのである。で、その「善人」とは文化的なものがはがれたもやしみたいな人間なのである。文化があれば、人は「善人」ではいられない。

落合博満氏の『戦士の休息』とか『戦士の食卓』をもっているが、いまさら岩波書店から出てることにきがついた。落合氏は生意気な口調で制度破壊する人物としてメディアで扱われたが、むしろ文化的保守みたいな人なんじゃないかと昔から思っていた。落合氏は、練習のやり方や野球の仕方を昔のやり方からよく勉強して摂取した人で、むしろ新しいやり方には抑制的だったと思う。落合氏が活躍した80年代から2000年代は、えせ改革の時代であって、温故知新を信条とする落合氏がへんにみえたのもそのせいだ。給料や記録に異常に執着するのも、50、60年代の貧乏職業野球人のメンタルだ。そして「善人」ではない。


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