★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

媒介・函数・二人

2024-09-23 23:24:27 | 文学


 犀星君は無論詩人である。生れながら詩を欠いでいるような私の窺い知らない純粋な詩人であるらしい。氏は自分の好みの庭を造るとか、さまざまな陶器を玩賞することに心根を労していたらしい。そういう芸術境地が氏の小説その他の作品に漂っているのである。私の作品にはどこを捜しても、そういう芸術心境が出現していないようである。私の住宅に庭と称せられる物があっても、それは荒れ地に、樹木雑草が出鱈目に植っているだけである。私の文学もその通りであろう。こんなものが芸術かと室生君には感ぜられそうである。庭や陶器など別として、君の小説を観ると、女性に関する関心が丹念に深さを進めていることが、私にも感ぜられるのである。ねばり強い事一通りでなさそうである。私はそれ等の点から新たに犀星君の作品検討を試みようかと、普通一般の宗教形式に由らない追悼の席に坐りながら思いを凝らした。室生君とは軽井沢に於いて親しくしていたのであった。心に隔てを置かず、世間話文壇話をしていたのであったが、陶器や庭園に関する立ち入った話、或いは文学そのものについての立ち入った話は一度もしたことがなかった。淡々とした話で終始していたのだが、それだからお互いに気まずい思いをしなかったのであろう。

――正宗白鳥「弔辞」


最近、いろいろな人がお亡くなりになる。昨日は、フレドリック・ジェイムソンの死去のニュースがきた。90歳。二〇世紀のマルクス主義哲学から構造主義?みたいな新興勢力を横目に事態を収拾しようとしていたようにみえた。柄谷行人の序文なんかも書いていた。むかし、留学生と一緒に飜訳して楽しんだことがある。媒介者として生きようとしていた人であるようにみえた。

人が作品を残すにもいろいろなかたちをとる。――例えば、ブルックナーにたくさんの版があることはとてもおもしろいことで、みんなおれのベートーベンとかおれのマーラーをつくろうとおもわないのに、おれのブルックナーをつくることにためらいがない。彼の音楽は、ポップスに近い何かで、ブルックナー自身、違うおれのブルックナーをその都度作り出している。音が音を呼ぶ現象が個人の中でアイデンティティを更新するレベルで作動することがある。

音や玉は人間よりも激しくうごく。

アメリカから飛んで来たボールが日本に着弾して変容した。大谷君なんかもそれの一変種だ。彼が高校時代につくった曼荼羅チャートは有名だが、高校時代にここまでやれるのが、日本のある種の「優等生」なのである。西洋の?発明した合理化は日本で別の合理化となって花開く。大谷君は、トヨタやアニメと似ているのである。

だから我々は大谷君をみても少し元気はでるかもしれないが、別に変容するわけではない。我々自身は函数に過ぎない。体が少し楽になってきたと思ったが、大谷君のせいではなく、最高気温が三〇度をようやく切ったからだ。

今日は、もと国語の教師で在野の研究者になったある人が亡くなった。退職してから二〇年間研究を志した。多くの大学の研究者だって二〇年間全力でやれたら良くやった部類だ。戦前生まれは、二人分やろうとするひとがおおい。キャリアアップみたいなかんじで生きていないから可能なんだと思う。二人分やることは、自らのうちに二人のブルックナーを響かすことだ。この方は女性であって、これも重要な点であるのは言うまでもない。すなわち、働き盛りの頃二人分やらざるをえない状況になっている人が多い。そして、長生きすると、いままでの自分を捨てて別のものにならなきゃいけないこともある。この意味でも二人分であった。


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