中日ドラゴンズは黄金時代は終わっても、ブランコの満塁ホームランでクライマックスシリーズセカンドステージに進出。
映画「Kinky Boots」を日本の下町を舞台にやったらどうなるか。「県庁の星」みたいになってしまうかも知れない。
という感じで日本の差別の酷さを告発するのもいいが、いささか飽きてきた。
たぶん「Kinky Boots」は、ゲイ差別の克服という「物語」によって、現実のイギリスにあるもっと別の種類の差別を隠蔽しているに違いない。
という感じで日本の差別の酷さを告発するのもいいが、いささか飽きてきた。
たぶん「Kinky Boots」は、ゲイ差別の克服という「物語」によって、現実のイギリスにあるもっと別の種類の差別を隠蔽しているに違いない。
例のノーベル賞の人が奥さんパートナーとテレビにでていて、子どもの成長を横で見ながら研究出来てよかったです、研究が苦しい時には家族が支えになりました、とかなんとか言っていた。はいはい、そうですかい、と思っていたら、あまりにも垂涎の人生に悶絶。奥さんパートナーは中学生の同級生らしく、大学「教員」であるわたくしなど、不純異姓交際かっ、とつい反応してしまったが、そんなことはなかったようで、順当に整形外科医の修業で「ジャマナカ」とか言われつつ、研究者に転身、二人でドクター取得後結婚(←これ立派)、二人の子どもを天から取得授かり、ノーベル賞取得受賞と、すばらしい軌跡が紹介されていた。わたくしの淫らな人生と比べて何という違いであろうか。
わたくし
↓
中学では不純異姓交際どころではない学校の荒れように悩み、音楽を目指すが「ジャマナカ」と人に言われるまでもなく勝手に挫折、順当に大学にも落ち、というわけで芸術家から研究者に転身(自意識では……)、ドクター取得までにかなりの女性に見放され、香川にたどり着き……ノーベル賞受賞(してない)
違いすぎる。
マスゴミの皆さんに言いたいのは……、学者の人生にはいろいろあるということである。離婚したらいきなり頭角を現した学者、ゼミ生と結婚してしまった学者、子どもが引きこもりないし不良になって研究どころではなくなった学者、自由を吹き込んだためか子どもがバイオリン職人なんかを好きになって自転車二人乗りなどして転落人生一直線、あるいは、研究に一生懸命だったので子どもがマザコンやファザコンに(あれ?この作品出でてくるお父さんは学者じゃなかったかな?忘れたわ)、しかもエヴァンゲリオンに乗ったり世界を滅ぼしたりする人達を量産するなど、まあいろいろいる訳である。
研究テーマだっていろいろあるからな、夢の再生医療に役立つから山×教授の研究はいいのかもしれないが、わたくしの業界は、破滅する人間模様になぜ人間は昂奮するのか、という研究で満ちあふれている。
あーちなみに、学者というものは一般的に「小市民や国家はおれを支えて当然」と思っているかもしれない。わたくしはヘタレ学者だから思っていないっ。マッドサイエンティストという言葉があるが、まちがっている。サイエンティストというのはもともとそもそも良くも悪くもマッドなのである。それでなければ精神の維持を優先する小市民のなかでやってられるか。(少なくとも以上のように思い上がっている)
例によって、遠回しな言い方になっているのであるが、はっきり言ってしまえば、ノーベル賞を取った人の人生や私生活などに注目しているマスコミの狙いは、山×教授をヘタレ庶民に引きずりおろすことであって、これが一番気にくわない。ルサンチマンの所産である。ノーベル賞とる人間だって普通の人間ですよ、だから何?家族の絆でノーベル賞が取れるのかよ。一応優れた業績を上げた人間に対して、これほど敬意を欠いた狂った時代があったであろうか?(たぶん、昔もあったけど……)
狂ってると言えば、黒澤映画の「生きものの記録」を思い出す。原爆水爆から自分の家族(妾とその子を含む)を守るために、ブラジルへ移住しようとし、家族から反対されたので、家族が執着する自分の家(工場)を焼き払ったため精神病院に入れられてしまった老人の話である。彼が狂気なのか、日本に平気に住んでいる彼以外が狂気なのか、この問題を突きつけるのがこの映画だが、まるで大江健三郎の小説の発想のもとになっているような作品である。主人公の「狂気」はどこからくるのか。映画をみていると、彼が案外原爆関係の情報に関し、メディアや人の言うことを疑いもなく信じてこんで突き進んでしまうことが重要かもしれないと思う。彼を向こう側の世界にまで追い込むのは、「ブラジルまで行っても地球を何回も吹き飛ばす量の水爆があるんだ」という近親者の言葉と、牢屋での同僚が面白半分に言った「地球から逃げリャいい」という言葉であった。これらをまともにうけとった結果、彼の精神は他の星に本当に飛んでいってしまった。原爆が落ちても原発が爆発してもなぜ我々は逃げないのか、この問題には我々があまり触れられたくない我々の精神的生そのものがあり、我々はこの映画を見終わったあと、原爆の恐ろしさより、その精神的生に悩まされ、そこから逃避してしまうであろう。ある意味で、この逃避は、主人公の逃避とも似ているはずであって、その証拠に、原爆関係の作品は、ある例外を除いてほとんどSFとして描かれているではないか。
すなわち、この黒澤映画は、おそらく前年上映の「ゴジラ」への根本的な批判である。ゴジラは水爆そのものである、しかも水爆ではないからである。その自明性を考察することは辛いから我々は常に逃避する。
わたくし
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中学では不純異姓交際どころではない学校の荒れように悩み、音楽を目指すが「ジャマナカ」と人に言われるまでもなく勝手に挫折、順当に大学にも落ち、というわけで芸術家から研究者に転身(自意識では……)、ドクター取得までにかなりの女性に見放され、香川にたどり着き……ノーベル賞受賞(してない)
違いすぎる。
マスゴミの皆さんに言いたいのは……、学者の人生にはいろいろあるということである。離婚したらいきなり頭角を現した学者、ゼミ生と結婚してしまった学者、子どもが引きこもりないし不良になって研究どころではなくなった学者、自由を吹き込んだためか子どもがバイオリン職人なんかを好きになって自転車二人乗りなどして転落人生一直線、あるいは、研究に一生懸命だったので子どもがマザコンやファザコンに(あれ?この作品出でてくるお父さんは学者じゃなかったかな?忘れたわ)、しかもエヴァンゲリオンに乗ったり世界を滅ぼしたりする人達を量産するなど、まあいろいろいる訳である。
研究テーマだっていろいろあるからな、夢の再生医療に役立つから山×教授の研究はいいのかもしれないが、わたくしの業界は、破滅する人間模様になぜ人間は昂奮するのか、という研究で満ちあふれている。
例によって、遠回しな言い方になっているのであるが、はっきり言ってしまえば、ノーベル賞を取った人の人生や私生活などに注目しているマスコミの狙いは、山×教授をヘタレ庶民に引きずりおろすことであって、これが一番気にくわない。ルサンチマンの所産である。ノーベル賞とる人間だって普通の人間ですよ、だから何?家族の絆でノーベル賞が取れるのかよ。一応優れた業績を上げた人間に対して、これほど敬意を欠いた狂った時代があったであろうか?(たぶん、昔もあったけど……)
狂ってると言えば、黒澤映画の「生きものの記録」を思い出す。原爆水爆から自分の家族(妾とその子を含む)を守るために、ブラジルへ移住しようとし、家族から反対されたので、家族が執着する自分の家(工場)を焼き払ったため精神病院に入れられてしまった老人の話である。彼が狂気なのか、日本に平気に住んでいる彼以外が狂気なのか、この問題を突きつけるのがこの映画だが、まるで大江健三郎の小説の発想のもとになっているような作品である。主人公の「狂気」はどこからくるのか。映画をみていると、彼が案外原爆関係の情報に関し、メディアや人の言うことを疑いもなく信じてこんで突き進んでしまうことが重要かもしれないと思う。彼を向こう側の世界にまで追い込むのは、「ブラジルまで行っても地球を何回も吹き飛ばす量の水爆があるんだ」という近親者の言葉と、牢屋での同僚が面白半分に言った「地球から逃げリャいい」という言葉であった。これらをまともにうけとった結果、彼の精神は他の星に本当に飛んでいってしまった。原爆が落ちても原発が爆発してもなぜ我々は逃げないのか、この問題には我々があまり触れられたくない我々の精神的生そのものがあり、我々はこの映画を見終わったあと、原爆の恐ろしさより、その精神的生に悩まされ、そこから逃避してしまうであろう。ある意味で、この逃避は、主人公の逃避とも似ているはずであって、その証拠に、原爆関係の作品は、ある例外を除いてほとんどSFとして描かれているではないか。
すなわち、この黒澤映画は、おそらく前年上映の「ゴジラ」への根本的な批判である。ゴジラは水爆そのものである、しかも水爆ではないからである。その自明性を考察することは辛いから我々は常に逃避する。
ドラマ「三国志」は第5部「奸雄終命」が終了。
魯粛、龐統、関羽、曹操殿と重要人物がばたばたと死んでゆく。左の四人のうち、一番かっこわるかったのは関羽。魯粛は知識人らしく筆を握ったまま力尽き、龐統は劉備に蜀を攻める口実をつくるために自ら矢に当たる。曹操殿は、最後まできちんと仕事をやり跡継ぎまできちんと選び最後は帝になるのを遠慮するなど完璧。それに比べて関羽ときたら、鬚をなでながら碁を打っているうちに負け戦になっているのに気付いていなかったというマヌケぶり。敗走しているうちに鬚が一気に白くなるなど、老いは気からの典型的症状を示しつつ、敵に囲まれ自殺。自分の墓を暴かれぬよう細工を施した曹操殿にくらべ、みんなのいる前で自殺しても、そのあと首を取られるに決まっているのであり、孫権から曹操へ誕生日プレゼントとして首を宅急便で送られる始末。当時のことである、さぞ腐乱していたことであろう……
最近は神=関羽に失礼ということで、呂蒙を呪い殺したり、宅急便の中の首に「お元気でしたか」と囁いた曹操殿に明るく「元気だよ~」と答え、曹操殿の寿命を縮めたなどの名エピソードはあんまり語られないらしい。ドラマでも亡霊関羽は劉備の前にニヤニヤしながら現れただけであった。ドラマ「三国志」がアカンのは、社会主義リアリズム以降のあれなのか、世界の恥を嫌ってか、「三国志演義」の神仙オバケものの側面があまり活かされていないことであろう。
ともあれ、劉備は、義兄弟関羽の死を聞き卒倒……
さあ、第六部は、劉備怒りの大反撃の末の大敗北
附記)曹操殿のご冥福をお祈りします。
魯粛、龐統、関羽、曹操殿と重要人物がばたばたと死んでゆく。左の四人のうち、一番かっこわるかったのは関羽。魯粛は知識人らしく筆を握ったまま力尽き、龐統は劉備に蜀を攻める口実をつくるために自ら矢に当たる。曹操殿は、最後まできちんと仕事をやり跡継ぎまできちんと選び最後は帝になるのを遠慮するなど完璧。それに比べて関羽ときたら、鬚をなでながら碁を打っているうちに負け戦になっているのに気付いていなかったというマヌケぶり。敗走しているうちに鬚が一気に白くなるなど、老いは気からの典型的症状を示しつつ、敵に囲まれ自殺。自分の墓を暴かれぬよう細工を施した曹操殿にくらべ、みんなのいる前で自殺しても、そのあと首を取られるに決まっているのであり、孫権から曹操へ誕生日プレゼントとして首を宅急便で送られる始末。当時のことである、さぞ腐乱していたことであろう……
最近は神=関羽に失礼ということで、呂蒙を呪い殺したり、宅急便の中の首に「お元気でしたか」と囁いた曹操殿に明るく「元気だよ~」と答え、曹操殿の寿命を縮めたなどの名エピソードはあんまり語られないらしい。ドラマでも亡霊関羽は劉備の前にニヤニヤしながら現れただけであった。ドラマ「三国志」がアカンのは、社会主義リアリズム以降のあれなのか、世界の恥を嫌ってか、「三国志演義」の神仙オバケものの側面があまり活かされていないことであろう。
ともあれ、劉備は、義兄弟関羽の死を聞き卒倒……
さあ、第六部は、劉備怒りの大反撃
附記)曹操殿のご冥福をお祈りします。
映画「ボレロ」_(1934)は、主人公ラオールへの兄マネージャーの愛情(彼らは確か異母兄弟!)の話としても面白いが……いろいろな問題が描かれている作品である。ラオールが、第一次世界大戦が始まった時に、「入隊するダンサー」として女性パートナーと一緒に新聞を飾ることによって、自らのダンスの絶好の宣伝期とみなし、ある意味芸術家を貫こうとする──のに対し、パートナーの方は彼が愛国心から入隊する気がないことに失望して彼から離れ、ラオールが戦時中で九死に一生を得ているころに金持ちと結婚までしてしまうのは興味深い。ラオールとその兄は元炭坑夫であり、たぶんブルジョアジーを食い物にしてでものし上がっていこうとしている訳で、ブルジョア世界でのし上がるためには、彼らが喜ぶダンスを踊り、老貴婦人のコネさえも使った。ある種、ブルジョア文化の「婦女子的なもの」は、媒介物として差別されているけれどもそれが階級闘争の道具でもある。媒介物として意識すること自体、それへの差別を乗り越えてゆく第一歩でもあるから、彼らの意識を全否定することはできない。プロレタリア文学とか「西部戦線異状なし」に限らないけれども──信じられるのが同性との連帯感とか愛情だとされている作品については、もっと考えられてよいかもしれない。誰か言っていたけれども、「セメント樽の中の手紙」が、プロレタリアとの連帯と家庭の維持との、両極の女の要求に宙吊りになり身動きがとれない話なのも思い出させる。何が問題なのかを明らかにするためには、ある種の差別的な描き分け方が必要なのである。
そんな、芸術と階級、芸術と戦争、芸術と女の問題であたふたする物語のなかに、面白い場面がある。ラオールはラベルの「ボレロ」を、「原住民の中で踊る白人の男女」の踊りと捉えていて、自らつくった劇場で、背後の高所にオーケストラピットを、円い舞台の周りに黒人達の太鼓隊を配し、上演しようとしていた。(もしかしたらラオールは、「ボレロ」を「春の祭典」みたいなものとしてみていたのかもしれないし、黒人芸術を自分のダンスに同志として取り込みたかったのかもしれない……。あるいは白人と黒人の「関係」を自ら証するつもりだったのかもしれない。)しかし、劇場のこけら落としは、戦争の開始と重なってしまい、ボレロは観客の無視によって中断に追い込まれる。しかるに、戦争が終わったあと、ラオールが劇場を復活させたときに、黒人の太鼓隊はオーケストラピットの直下にビックバンドのように配置される如く変更されるのだが、何か意味があるのであろうか。ここには、ジャズにおける黒人音楽の市民権の推移が見て取れるかもしれないし、前衛芸術に於ける黒人芸術の評価や何かが反映しているかもしれない。展開はされていないが、階級問題と人種問題は手を結ぼうとはしているし……。まあ日本の場合、ゴジラ映画の段階でも「原住民」は南方からの怨念ゴジラのメタファーとか、もっと酷いのになると自然=ゴジラのメタファーだから、のんきなものであるが……。いずれにせよ、元パートナー=失恋相手の白人女性=富豪夫人との最後のボレロを踊って、スケーターズワルツのような西洋文化そのものみたいな曲をアンコールとして踊る前に、戦争で心臓を悪くしていたラオールは、観客の拍手を遠く聞きながら、発作でなくなってしまう。意味深すぎる結末である。昔の映画は、見終わったあといろいろ考えさせる場合が多いね、今の映画は見に行こうか迷うという意味で考えるのが多いけど……。
くどい説明も心理描写もない淡々とした映画にみえるが、「問題」を描くにはこういう感じの方が結局はいいのかもしれない。観客に「コミュニケート」し説得しようとしても、どうせ伝わりゃしないのであるからして……。だいたい、その「問題」は、観客とコミュニケートするほど具体性も処方箋もまだ明らかに出来ないレベル──試行錯誤中なのだ。むりにそれをやろうとすると、上記のわたくしの解説のように、空々しく嘘が混じるのである。