人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

誰も悟ることは出来ない

2014-11-02 19:08:55 | 覚醒
「私は悟った、覚醒した」
このような表現がごく普通に使われていますし、私自身もそのような言い方をすることが有ります。
でも、それはそのような表現をしないと相手に伝わらないので、仕方なしにそうしているまでで、事実は悟りにせよ、覚醒にせよ、ワンネス体験にせよ
それは「一個人に帰すことは出来ない」と言うのが真相です。
私は昨日書いたように、〈これは実際に表現上そういう状況を見たという訳では無く、意識に直接伝えられたことです)普遍調和世界の大パノラマを垣間見ることがありましたが、その間今まで私だと思っていた一個人は傍らに追いやられており、
言わば、スポーツ観戦で外野席でただ茫然と眺めているようなものなのでした。
悟り、目覚めの内実というのは、寿命が尽きたら死んでしまうようなチッポケな自分には無いのです。
傍観者にすぎない私は、その大活劇には何も参与してません。
ただ実際にそこに参与しているプレイヤーの方に主体が移って行ったのですが、それは言うまでも無く業生の私とはケタ違いの知られざる自己の本体ともいうべきものです。
だから「誰が悟ったか、どうか」と言った話にも本当は意味など無いのです。
「体験したらいいってもんじゃない」という事も、このような裏事情が有るからなのです。
もし、それを一個人に帰してしまえば、おそらく個人の限界内にその内実は閉じ込められ、自己を超えるというそもそもの方向性からは無縁なものとなってしまうことでしょう…。
では、その目覚めの内実とは?…自分の本体は永遠の命にして、普遍共同体である、という事が開示されることに有ります。
無量寿仏、無辺光仏とはそのような内実を持った覚者という意味ですがアミターバ、阿弥陀仏のことです。
阿弥陀様に帰命しますという、南無阿弥陀仏とは何という深みを持った名号なのでしょうか!
それが今じゃ「ご愁傷様でした」になってしまうとは!
この普遍共同体たる自己の本源御自らの自己開示という事なしに、悟りも、覚醒もどうにもならないものなのです。
私には玉城康四郎先生が言われる「ダンマ(仏法)が自己に顕わになる」という表現がとても腑に落ちました。
こちらとしては目の黒いうちに? 阿弥陀様様の恩催しにお任せするより他有りません。
この普遍共同体ですが、一寸表現するのが私の力量を超えているのですが、無数の多様な肢体の葡萄状を思わせる統合体とも言うべきものです。
この一つ一つの肢体は決して全体の従属物という感じでなく、それ自体は独立しているが、尚も全体と連携が有るというところに、普遍調和
の妙なる響きが伝わってくるのです。(上手く伝わったかな?)
一時期流行ったニュー・サイエンスのホロン理論とかは参考になりますかね。
この普遍共同体なるものは、この見える世界、人生の表側と如何なる関係が有るのか?無いのか?
仏伝によると、阿弥陀如来の前身は法蔵菩薩で彼は「衆生全てが救われないと如来にならぬ」と宣言したのだそうです。
私はここにも悟りや覚醒が個人に帰されるものだけで、事足りてしまうものでないもの、というこを示唆しているのを感じます。
こうなると、やっぱりもはや「誰が悟ったかという問題じゃない!」のです!


コメント
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