私は昔から音楽を聴くのが好きで、世代的にアナログ盤というのに馴染みが有ります。
CD何ていうのが出てきた時は戸惑いましたね。
レコード屋さんで初めて聴かせてもらった時、演奏が終わったところで店主さんにこう言いました。
「B面もお願いします!」(笑)
アナログ盤2枚分を1枚のCDにカップリングしたのを2イン1と言うそうですね。
これは果たして一枚として捉えるべきなのか…いや二枚分というイメージも拭えない…
ドアーズのファースト・アルバムの最後の曲は「ジ・エンド」…終わらないじゃないか!
宗教的回心、自己の内なる神への絶対信、と書いてきましてこの二つのプロセスは表面的に捉えると、矛盾したものに導かれるように思えますね。
前者は徹底した自己否定、後の方は究極の自己肯定ではないかと…。
こういうことは、いくら考えても結論は出ないですね。
そもそもこれは思考のハタラキが弱められて、純粋な意識状態に移行するプロセスにおいて示されることだからです。
ただ私には近年のスピ系は、一元的な「内在神」にアプローチするのが花盛りで、何か手放しでその気になって、分かったつもりになってしまう傾向が多分にあるように感じられるのです。
「自分の中に神がいる筈なのに、何故こんなに苦悩や不調和が絶えないんだろう…」と感じる方も多かろうと思います。
非二元のマスターによれば、それは我々が個我に縛られている為だそうです。
だからいくら内なる神を信じたとしても、ままならぬ現実は以前として自分は個我の幻想の中に浸っていることを物語っている訳です。
無理にそんなこと信じない方が、却って気楽でいられると思いますがね。
無理に信じようとすると、なかなかそうならない自分が負担になってきますし…
ともすると、全く観念の世界で自分自身が宙ぶらりんになってしまいがちです。
そこで雁字搦めの状態の自我性にどっかで、風穴が開けられる必要があります。
それが回心という事になる訳です。
それは限りある自我を超えた、超越的実在への帰依により導かれます。
非二元の道からはしばしば二元論のレッテルを張られたりしていますが、これが対立的になれば非二元も二元論と同じになるでしょう。
相対的に観ている訳ですから。
一方欧米では二元的帰依の宗教はキリスト教に代表されますが、昔から非二元の道に対してかなり挑発的です。
「内在の神だなんてとんでもない、神は絶対他者である!」とか…
確かに自己の無力さ、無知さを知らされた時、絶対他者として現前するものが有りますが…
私はどちらが本当かと尋ねられたら…
「どっちも本当!」と答えるしかないですね。
私は昔からヘソ曲りなところが有りまして、教会で牧師が「神は絶対他者だ!」と決めつけたこと言ったら、「いや、それは一方的な観方だ!」
と言い返したりしています。
今は頭でっかちの「内在神」信仰?が巷に溢れているので、「後で頭叩かれてペシャンコになっても知らないですよ!」と言う機会が多い…かな?
私にはこの二つの道はどちらか一方とも欠かすことのできない両輪だと思っています。
帰依、自己を超えた存在への明け渡しということ無しに、内なる絶対的なものは開かれず、、又内なる光が無ければ、永久に絶対他者を仰いでないとならないでしょう。
これは実は二つあるようで、一つしかない…思考を超えるってことは、そうなるっきゃない!
肝心な事は目覚めにしろ、気付きにしろ自分の考え、能力でないところで起きる事なんですから…。
そしてそこには到達、達成というプロセス経ずして、元々そのものが有った…。
私はそれが起きる前からこの両輪を別々のものとして分けて捉えたことは無かったですね。
「あれにも共感!これにも共感!悪いですか!」
私は欧米人でもインド人でもありません。
「どっちも本当」と、自然に受け入れられる国に生まれたのです。
「日本人に生まれて本当に良かったと思ってます」(高倉健さん 追悼)
CD何ていうのが出てきた時は戸惑いましたね。
レコード屋さんで初めて聴かせてもらった時、演奏が終わったところで店主さんにこう言いました。
「B面もお願いします!」(笑)
アナログ盤2枚分を1枚のCDにカップリングしたのを2イン1と言うそうですね。
これは果たして一枚として捉えるべきなのか…いや二枚分というイメージも拭えない…
ドアーズのファースト・アルバムの最後の曲は「ジ・エンド」…終わらないじゃないか!
宗教的回心、自己の内なる神への絶対信、と書いてきましてこの二つのプロセスは表面的に捉えると、矛盾したものに導かれるように思えますね。
前者は徹底した自己否定、後の方は究極の自己肯定ではないかと…。
こういうことは、いくら考えても結論は出ないですね。
そもそもこれは思考のハタラキが弱められて、純粋な意識状態に移行するプロセスにおいて示されることだからです。
ただ私には近年のスピ系は、一元的な「内在神」にアプローチするのが花盛りで、何か手放しでその気になって、分かったつもりになってしまう傾向が多分にあるように感じられるのです。
「自分の中に神がいる筈なのに、何故こんなに苦悩や不調和が絶えないんだろう…」と感じる方も多かろうと思います。
非二元のマスターによれば、それは我々が個我に縛られている為だそうです。
だからいくら内なる神を信じたとしても、ままならぬ現実は以前として自分は個我の幻想の中に浸っていることを物語っている訳です。
無理にそんなこと信じない方が、却って気楽でいられると思いますがね。
無理に信じようとすると、なかなかそうならない自分が負担になってきますし…
ともすると、全く観念の世界で自分自身が宙ぶらりんになってしまいがちです。
そこで雁字搦めの状態の自我性にどっかで、風穴が開けられる必要があります。
それが回心という事になる訳です。
それは限りある自我を超えた、超越的実在への帰依により導かれます。
非二元の道からはしばしば二元論のレッテルを張られたりしていますが、これが対立的になれば非二元も二元論と同じになるでしょう。
相対的に観ている訳ですから。
一方欧米では二元的帰依の宗教はキリスト教に代表されますが、昔から非二元の道に対してかなり挑発的です。
「内在の神だなんてとんでもない、神は絶対他者である!」とか…
確かに自己の無力さ、無知さを知らされた時、絶対他者として現前するものが有りますが…
私はどちらが本当かと尋ねられたら…
「どっちも本当!」と答えるしかないですね。
私は昔からヘソ曲りなところが有りまして、教会で牧師が「神は絶対他者だ!」と決めつけたこと言ったら、「いや、それは一方的な観方だ!」
と言い返したりしています。
今は頭でっかちの「内在神」信仰?が巷に溢れているので、「後で頭叩かれてペシャンコになっても知らないですよ!」と言う機会が多い…かな?
私にはこの二つの道はどちらか一方とも欠かすことのできない両輪だと思っています。
帰依、自己を超えた存在への明け渡しということ無しに、内なる絶対的なものは開かれず、、又内なる光が無ければ、永久に絶対他者を仰いでないとならないでしょう。
これは実は二つあるようで、一つしかない…思考を超えるってことは、そうなるっきゃない!
肝心な事は目覚めにしろ、気付きにしろ自分の考え、能力でないところで起きる事なんですから…。
そしてそこには到達、達成というプロセス経ずして、元々そのものが有った…。
私はそれが起きる前からこの両輪を別々のものとして分けて捉えたことは無かったですね。
「あれにも共感!これにも共感!悪いですか!」
私は欧米人でもインド人でもありません。
「どっちも本当」と、自然に受け入れられる国に生まれたのです。
「日本人に生まれて本当に良かったと思ってます」(高倉健さん 追悼)