2012年12月22日ってどんな日だったか覚えてますか?
多くのスピ系を中心とした人たちが、その日が来るのをかたずを飲んで待ち受けていました。
そう、アセンション…地球が次元上昇するというその日は近未来の事だったハズが、今や過去の話になってしまった感がありますね。
様々な言説が飛び交い「もう使い古されてしまった」という印象もありますしね。
これは時期を特定した予言的言説の宿命ですね。
一分でもその時が経過したら過去形となる訳です。
でもこういう類の言説は昔から後を絶ちません。
我が国でも古くは明治時代に発祥した新宗教、大本教のそれは有名です。
「神が世に顕れて…この世をさらつにするぞよ…」
根源神艮の金神のお告げを取り次いだ、開祖出口なおさんの存在だけでも強烈なのですが、怪物と言われた教主出口王仁三郎さんの登場から、教団の周辺はにわかに暴風雨に見舞われたように到底ここでは書ききれない程、様々な事が起き始めました。
大正10年に時の政府により教団は弾圧を受けるのですが、当時の大本の機関紙などを読むともう「予言熱」に浮かされている感じで、危険団体というレッテルを張られても仕方ない、との印象を受けます。
「大正10年某月某日世の大立て替えが起こり、人民は3分になる…」
その後、離教して一派を成す論客、猛者連による威嚇的、脅迫的な文章が紙面を踊っていました。
ところが中心人物たる王仁三郎さん本人はというと、ある時からパッタリ売り物の開祖の神のお告げ~お筆先の予言的解釈や神がかり体験を促す霊学のことは引っ込め、もっぱらコッケイな社会風刺に満ちたエッセイを書いてました。
あまり表には出て来ず、有力幹部の自主性に任せていたようです。
そしてかたずを飲んでその日来る日を待っていた当人たちを待ち受けていたのは…教団の弾圧、粛清であった…。
この件を契機に、数人の有力幹部、論客たちはそれぞれの思惑を持って立ち去って行ったのでした。
「立て替えられたのは、自分たちだった」というオチです。
この出口王仁三郎という人は私にはもう、ずっと別格といった存在で未だに捉えきれない所があるのですが、みろくの世(来るべき理想天国)の到来についての信者さんの質問にこう答えています。
「皆みろくの世はいつ来るといって期待しているが、私には昔から来てをるのだ。なんぼみろくの世といっても、来ない人には何時まで経っても来ない。」
理想天国が来る前に、大峠と言うのが有ると言うのがこのテの話の定説です。
かの日には磁場が狂う…気温が急低下する…地軸が傾く…。
見ている世界は劇変するかも分かりません。
だが、見ている当体が変わらなかったら、一体それが何だというのでしょう。
「カタストロフィだ、大変だ、死ぬかも分からない…」
だが、「もう何時死んでもいいや」と死の恐怖が無くなってしまったら、一体それが何だというのでしょう。
カタストロフィに関する話と時期を切った予言の話というのは、どうやら付き物のようですね。
調和世界を垣間見た人にも多かれ少なかれ、劇変する近未来が予感されることがあります。
でも前者の観方とは根本的なズレがあるようです。
まず、時期を限ったヴィジョンとしては認識されないのが普通でしょう。
そのヴィジョンにはそもそも時間というものが無いからです。
近未来でなく、何時だってここにあるものだからです。
そしてカタストロフィに関するヴィジョンは知らされないのが普通でしょう。
喩え、天地がひっくり返ろうがその調和世界は微動だにしないものと認識されるでしょうから…
本質的な変容とは見える客体世界の事でなく、我々の意識のことです。
(これは決して使い古されるわけにはいかないでしょ!いくら分かったつもりになってても、現実になってみない事には…)
大本や日月神示に見える「神が表に顕れる」というのはこの事を暗示しているのではないでしょうか
何年何月何が起こる、かにが起こる…見ている世界ばかり見てたら…
「足もとからとりが立って、アフンとすることが出来するぞよ…」(大本神諭)
多くのスピ系を中心とした人たちが、その日が来るのをかたずを飲んで待ち受けていました。
そう、アセンション…地球が次元上昇するというその日は近未来の事だったハズが、今や過去の話になってしまった感がありますね。
様々な言説が飛び交い「もう使い古されてしまった」という印象もありますしね。
これは時期を特定した予言的言説の宿命ですね。
一分でもその時が経過したら過去形となる訳です。
でもこういう類の言説は昔から後を絶ちません。
我が国でも古くは明治時代に発祥した新宗教、大本教のそれは有名です。
「神が世に顕れて…この世をさらつにするぞよ…」
根源神艮の金神のお告げを取り次いだ、開祖出口なおさんの存在だけでも強烈なのですが、怪物と言われた教主出口王仁三郎さんの登場から、教団の周辺はにわかに暴風雨に見舞われたように到底ここでは書ききれない程、様々な事が起き始めました。
大正10年に時の政府により教団は弾圧を受けるのですが、当時の大本の機関紙などを読むともう「予言熱」に浮かされている感じで、危険団体というレッテルを張られても仕方ない、との印象を受けます。
「大正10年某月某日世の大立て替えが起こり、人民は3分になる…」
その後、離教して一派を成す論客、猛者連による威嚇的、脅迫的な文章が紙面を踊っていました。
ところが中心人物たる王仁三郎さん本人はというと、ある時からパッタリ売り物の開祖の神のお告げ~お筆先の予言的解釈や神がかり体験を促す霊学のことは引っ込め、もっぱらコッケイな社会風刺に満ちたエッセイを書いてました。
あまり表には出て来ず、有力幹部の自主性に任せていたようです。
そしてかたずを飲んでその日来る日を待っていた当人たちを待ち受けていたのは…教団の弾圧、粛清であった…。
この件を契機に、数人の有力幹部、論客たちはそれぞれの思惑を持って立ち去って行ったのでした。
「立て替えられたのは、自分たちだった」というオチです。
この出口王仁三郎という人は私にはもう、ずっと別格といった存在で未だに捉えきれない所があるのですが、みろくの世(来るべき理想天国)の到来についての信者さんの質問にこう答えています。
「皆みろくの世はいつ来るといって期待しているが、私には昔から来てをるのだ。なんぼみろくの世といっても、来ない人には何時まで経っても来ない。」
理想天国が来る前に、大峠と言うのが有ると言うのがこのテの話の定説です。
かの日には磁場が狂う…気温が急低下する…地軸が傾く…。
見ている世界は劇変するかも分かりません。
だが、見ている当体が変わらなかったら、一体それが何だというのでしょう。
「カタストロフィだ、大変だ、死ぬかも分からない…」
だが、「もう何時死んでもいいや」と死の恐怖が無くなってしまったら、一体それが何だというのでしょう。
カタストロフィに関する話と時期を切った予言の話というのは、どうやら付き物のようですね。
調和世界を垣間見た人にも多かれ少なかれ、劇変する近未来が予感されることがあります。
でも前者の観方とは根本的なズレがあるようです。
まず、時期を限ったヴィジョンとしては認識されないのが普通でしょう。
そのヴィジョンにはそもそも時間というものが無いからです。
近未来でなく、何時だってここにあるものだからです。
そしてカタストロフィに関するヴィジョンは知らされないのが普通でしょう。
喩え、天地がひっくり返ろうがその調和世界は微動だにしないものと認識されるでしょうから…
本質的な変容とは見える客体世界の事でなく、我々の意識のことです。
(これは決して使い古されるわけにはいかないでしょ!いくら分かったつもりになってても、現実になってみない事には…)
大本や日月神示に見える「神が表に顕れる」というのはこの事を暗示しているのではないでしょうか
何年何月何が起こる、かにが起こる…見ている世界ばかり見てたら…
「足もとからとりが立って、アフンとすることが出来するぞよ…」(大本神諭)