人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

われわれの人生の裏側

2014-11-08 21:07:41 | スピリチュアル
「お前は猫と人間と一体どっちが好きなんだ?」
昔、猫と戯れていた時、友人から訊かれました。
「そりゃあ、決まってるじゃないか!勿論…猫だよ」
と私は即答しました…。
だって人間と関わるってのは、うっとうしいばかりじゃないですか!
要らんことをやってしまったり、されたり…裏切られたり、足を引っ張られたり…
ヘタに関わると、面倒な事に巻き込まれそうです…。
小は隣近とのイザコザから大は国家間の戦争に至るまで、結局は争いというものの全ては人間関係のもつれに起因しているんじゃないですか?
毎年、数万にも上るという自殺の動機にもこれがもたげています。
ああ…人間関係というものは何と呪わしきものなのでしょうか…。
私は物心ついた頃から、どうもこの世というものに中々立脚感を持てなかった、という事情も有ってどうも人との関わりを、ギコチ無いものにしたまま育ったようなのです。
「誰も僕を理解してくれない」
こうした疎外感からか、自然と孤独が好きになりました。
人からの干渉は大キライです。
社会人になってから私の付き合いの悪さは同僚みんなに知れわたっていました…。
ところが…です。
「君と人生についてじっくり話してみたい」などといった誘いを受けたりすると、全く一変してトコトン付き合おうとする私を見出すのです。
私は表と裏の顔を持っていますからね…。色々な意味で…。(フフフ)
学生の頃はよく深夜喫茶店で徹夜して語り合いました。
喧々諤々の議論も起こったりして…まあ、青臭かったです。
もっと大人になってからも、午後の3時くらいから10時の閉店時間までやはり喫茶店で、店の人の迷惑そうな顔などお構いなしに…。
この時は知人の鋭い質問を受けているうちに、何かが降りてきた様に次々と自然と言葉が突いて出てくるという、生まれて初めての経験をしました。
又、ファミレスでも二人ないし三人で、やはり7~8時間に及ぶのはザラでした。
何も精神的な事ばかりを語り合ってる訳じゃないですけど、とにかく自由に忌憚なく交流するのです。
これは勿論相手の同意なしにそういう場は成立しない訳ですが、いやはやお互い何という理由も無しに好きなんですね、こういう場が…。
そこには誰が教えるとか、誰が教わるとか一方通行でない、お互い同じ目線での交流が認められました。
(たまに「あなたは上から目線だ」という指摘も受けましたが、「上からの力?が来ているからしょうがないだろ!」と答えたりしました。)
そして日常では気付かないような意識状態、「相手が私になり、私が相手になる」というようなとても有機的な関係というものもしばしば生まれました。
これは一方通行の交わりからは決して生まれ得ない、一体感を伴うものです。
「私が言おうとすることを何で先に言うんだ!」
と、所謂共時性というものもしばしば起こりました。
このような貴重な時と場を共有出来た数々一生忘れることは無いでしょう。
私はどれだけそれに育てられたことか…。
私の幼少の頃からの人間関係にまつわる暗部は、光がベールで覆われ閉ざされてしまった悲しみから来ていたようです。
一人の人間の内にはいまだ開示されていない神秘が隠されています。
いや、それにも増して神秘に包まれているのは、人間関係という得体の知れないタペストリーです。
これはしかし、二つ別々の事ではありません。
同じもののこっちの側面はまだあまり意識が向けられていないと言うべきでしょうか?
一個人における目覚めは、人と人との繋がりに移行していくでしょう。
呪われた人間関係から祝福された人間関係へ…。
われわれの人生の裏側の扉が開かれるのです…。





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