「一体、どうしたら目覚めの体験が出来るのですか?」と何人かの方から聞かれました。
どうしたってそういう話になってしまいますよね。
それが人情というもの…
しかし…私自身どうしてそんなことになってしまったのか分かりませんので、はぐらかしてしまいます。
パスカルも、綱島梁川も、玉城康四郎さんも「目覚めよう、目覚めよう」という目的意識など無く、ある日ある時忽然とそんなことになってしまった、ということなのです。
ここに何かパラドックスが有るようですね。
目的意識を持って瞑想したり、座禅したりしても必ずしもそうはならないという…。
一つ言える事、これは「出来る、出来ない」という個人の能力に関わることでは無いという事です。
これは個人というものが超えられてしまうという事だから、超個的なものに淵源があるのです。
さらに言えば、「目覚めよう、悟ろう」という目的意識からで無しに、むしろ一切の目論見的なものを手放す、というところから開けてくるものなのです。
私は長く火災保険とか保険の業務に携わっていたのですが、そこでは中途更改とか転換という手続きが行われます。
現行の契約を一端解約して、一から新たに違う内容で契約し直すのです。
転換という場合、終身保障とか現行契約よりずっとワイドな内容になるのが普通です。
転換とはコンヴァージョンというらしい…それを初めて聞いた時、私の揮発性スポットに火が付きそうになりました。
コンヴァージョンとは、キリスト教方面でよく言われる回心、生まれ変わりの事だったからです。
「悔い改め」と普通言われたりしますが、反省して心がけを変える、なんていう程度のことじゃありません。
勿論、キリスト教に限ったことでなく、宗教に限ったものでもありません。
近年巷を賑わせているアセンションなどでは、より上なる次元へと霊的進化を目指すと言います。
しかし、現行のままで、諸々の目論見を持ったままでそれを目指しても頭打ちに会うだけでしょう。
頭打ちに会う、というところにむしろ救いがあると言ってもいいでしょう。
機能、容量オーバーでオシャカになるくらいなら…。
このような話はいくら強調してもし過ぎる事は無いです。
回心とは現行の自分に見切りをつけ、新たに生まれる自分を受け入れる事に他ならないのです。
大体、進化などといっても、ほとんどの人は本当の自分というものを知りません。
人生には、世界には何故苦悩や不調和が有るのかも分かりません。
つまり我々のことは何も分かっていないのです。
真の姿というものが示されずして、一体どこへ行こうというのでしょう?
各駅停車の駅近辺に居る人は、通過列車ばかりだったら乗車が出来ません。
いつも急行に乗ってる人には、その各駅の駅がどんなところなのか分かりません。
その全貌が明らかになったら、なんていいところなんだ、と思うかも知れません。
普通電車は待っていたら、必ず乗ることが出来ます。
電車は止まってくれるからです。
先で急行列車はエンストしてたりして…。
でもどっち道、終点までは行くようになってます。
くれぐれもお乗り間違いのないように…。
どうしたってそういう話になってしまいますよね。
それが人情というもの…
しかし…私自身どうしてそんなことになってしまったのか分かりませんので、はぐらかしてしまいます。
パスカルも、綱島梁川も、玉城康四郎さんも「目覚めよう、目覚めよう」という目的意識など無く、ある日ある時忽然とそんなことになってしまった、ということなのです。
ここに何かパラドックスが有るようですね。
目的意識を持って瞑想したり、座禅したりしても必ずしもそうはならないという…。
一つ言える事、これは「出来る、出来ない」という個人の能力に関わることでは無いという事です。
これは個人というものが超えられてしまうという事だから、超個的なものに淵源があるのです。
さらに言えば、「目覚めよう、悟ろう」という目的意識からで無しに、むしろ一切の目論見的なものを手放す、というところから開けてくるものなのです。
私は長く火災保険とか保険の業務に携わっていたのですが、そこでは中途更改とか転換という手続きが行われます。
現行の契約を一端解約して、一から新たに違う内容で契約し直すのです。
転換という場合、終身保障とか現行契約よりずっとワイドな内容になるのが普通です。
転換とはコンヴァージョンというらしい…それを初めて聞いた時、私の揮発性スポットに火が付きそうになりました。
コンヴァージョンとは、キリスト教方面でよく言われる回心、生まれ変わりの事だったからです。
「悔い改め」と普通言われたりしますが、反省して心がけを変える、なんていう程度のことじゃありません。
勿論、キリスト教に限ったことでなく、宗教に限ったものでもありません。
近年巷を賑わせているアセンションなどでは、より上なる次元へと霊的進化を目指すと言います。
しかし、現行のままで、諸々の目論見を持ったままでそれを目指しても頭打ちに会うだけでしょう。
頭打ちに会う、というところにむしろ救いがあると言ってもいいでしょう。
機能、容量オーバーでオシャカになるくらいなら…。
このような話はいくら強調してもし過ぎる事は無いです。
回心とは現行の自分に見切りをつけ、新たに生まれる自分を受け入れる事に他ならないのです。
大体、進化などといっても、ほとんどの人は本当の自分というものを知りません。
人生には、世界には何故苦悩や不調和が有るのかも分かりません。
つまり我々のことは何も分かっていないのです。
真の姿というものが示されずして、一体どこへ行こうというのでしょう?
各駅停車の駅近辺に居る人は、通過列車ばかりだったら乗車が出来ません。
いつも急行に乗ってる人には、その各駅の駅がどんなところなのか分かりません。
その全貌が明らかになったら、なんていいところなんだ、と思うかも知れません。
普通電車は待っていたら、必ず乗ることが出来ます。
電車は止まってくれるからです。
先で急行列車はエンストしてたりして…。
でもどっち道、終点までは行くようになってます。
くれぐれもお乗り間違いのないように…。