人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我ならぬ我

2016-04-10 14:08:31 | スピリチュアル
「人が幸福を望むのは、幸福が自分にとって自然なものだからです。…
幸福とは真我の本性そのものである。」(ラマナ・マハルシ)

幸福でいた時のこと、楽しかった時のことを思い浮かべてみて下さい。
桜が視界一杯に咲いていた…心から欲しいと思っていたものが見つかった…無中になってマンガを読んでいた…初めてのデート…
その時あなたは何も考えていなかった、考えられなかったことでしょう…。喜びでいっぱいで…
何も考えていない、ということは我を忘れていた、ということではないでしょうか?
と同時に、そこで生の充実感が感じられなかったでしょうか?
我を忘れるって…”私はいない”ってことなのですか?
”私はいない””全てはストーリー”…まるで使い古されて、すりきれたテープみたいで…フニャフニャ、何を言ってるのか分かりませんが、”私はいなくて、全体だけがある”などと言いますが、全体というのは始まりも終わりも無く、動きとかハタラキとかも無い、ということです。
空論みたいなもので、分かったつもりの人は、常にそうした考えごとにハマりこんでいるのでしょうが、我を忘れて幸福感にある人は、そこに生成し続ける生のエネルギー、愛のハタラキを実感せざるを得ないはずです。
まあ、それが使い古されたフレーズ”今ここにある”ということになるのですかね…
そうですね…そこには”あいでんちちい”で固められた自我というものは無いでしょう。
でも、”私はここにある”という実感は隠しようが有りません。
それはしかし、その実感をもたらすものは、通常思われた通りの我でなく”我ならぬ我”です。
つまり、自分が自分でなくなるのが幸福なんです。エクスタシー!です。
自分を超えちゃうのです!…Oh、yeah!…
これは、自分からそうなろうったって、そうなりません!
やれ、瞑想、修行、メソッド、諸々の方法論…自分から何かに取り組もうとしたら、その仕組みに絡まれたりします。
自分をよく知ろうと、見つめよう、認識しようとしてより一層自己閉塞に陥るように…
それは思われていたままの我は、ホントの自分の主体じゃないからです。
ホントの主体とは、我ならぬ我…真我と言ってもいいし、又、神人…キリスト、阿弥陀如来、直霊(なおひ)と、様々な宗教的伝統で呼び親しまれ続けていたものでしょう…。 
それは全体と言えるものではありません。今も尚、現臨として生きて顕れ、ハタラくものだからです。
絶対無ともいうべき始まりも終わりも無い根源的なものが有るとすれば、そこから有的に動き出てくるもの…絶対無の自己限定です。
その枝分かれ?のような我々にとっての事始めとは、このものがこの身を通して顕わになった時でしょう。
それが”ここにある”という実感と共に、私やあなたの世界、歴史が開かれるという事です。
”ここにある”ことは幸福なこと…我ならぬ我と共にあることだから…
何も問題は無い、桜は咲いて、散って…”あら、葉っぱが出てらあ!”
何にも無くなってなど無いのです。ごく自然なことじゃありませんか!
自分が出そう、出そうとすると無理が出る、出てくるものは出てくる…
生かされていることって幸福ですね…。

















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする