人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己信頼とカルト

2016-04-24 17:06:03 | 人生の教師
誰の人生でも育った環境、時代相などの縁によって大きく左右されるものですね。
度々言いますように、私の精神的な歩みについては新宗教との関わりというものが大きかったのです。
とりわけ五井昌久先生によって、初めてそうした道を開眼させられたのです。そういう人は他にも少なくないでしょう。
広く、大衆に精神的道を知らしめるという事が五井先生の役目だったのでしょう…。
ただ、これはもう新宗教というものには付き物の問題とも言えることですが、そうして教線を拡大し、組織化するにつれ、本来の宗教の本筋から逸脱して行く傾向も顕れてきてしまうようです。
これはどうしても現世的な側面に関わるため、本来とは別のエネルギーが動き出すためでしょう。
五井先生は、自身について次第に”救世主になった”とか”五聖者が合体した”とか宣言するようになりましたが、果たしてこういう事を言う必要があったのでしょうか?
私は約一年間ほどの付き合いでしたが、この種の尾ひれがついた話というのは違和感を感じてしょうがなかったのです。
それからもう一つ、こうしたことと関連していますが、霊界、前世、宇宙人…といったオカルト的な色の掛かった話の数々…
確か先生はこう言う話は捉われになるからと慎重にされていたと思いますが、時折講話などで漏らしていたのも事実です。
これは、五井先生が育ち、修行させられた環境が大本教に起源を持つ、心霊的な側面を強調する団体だったからでしょう。
見えない世界というものを分かり易く説明するために、霊界とか幽界とかの話を持ち出したのです。
ただ、こうした傾向は先生から、というより周囲には瞬く間に色がさらに強く、多様化して広がっていくものです。大衆というものは感染しやすいものですから…
今日、ネット上では、五井先生で検索するとこの種の記事が沢山有ります。今や一教団というものを離れて、先生に縁のあった銘々が発進しているのです。例えば…
”世界平和の祈りをさせまいとする闇の勢力が有ると言う…
その祈りをして、敵対勢力を阻止し、善良なる霊団の守護を受けるのだと言う…(一体どういう念力か)
世界の破滅を乗り切るには、この祈りをし続けるしかないと言う…”
こんな話を聞かされたら、そう言っている向きは一種のカルトとしか思えないでしょうね…。
カルト的話というのは、自分たちはさも一大事のように興じていても、自分たち以外の人間には、全く何の問題にもなりません。
今、世界平和に何が必要かといったら、カルト思考を”消えてゆく姿”にする事でしょう!
私が知っている五井先生ってこんなこと言っていただろうか?
先生が忌み嫌っていたのは、かかるクサイ人間だったハズです。
先生によって精神的な道に開眼されたものとしてもう、悲しくなってしまいます。
祈りをする、しない、ということは善良なる、あるいは闇の勢力の霊団といったもの如何によるのですか?
全くもって自分次第なんじゃないですか?…自分の人生なんだから当たり前のことです!
こうなるともう、自己信頼の欠如、主体性の放棄、思考停止です! これが容易くカルト思考に結びつくのです。自己といっても、それは”これは正しいんだろうか…悪魔の誑かしじゃないだろうか…”とかごちゃごちゃ考え、迷い続けてる何野誰ベえの事じゃないです。とはいえ”こういうものです…”とも言えませんが、”我ならぬ我”みたいなものです。
それは、そういうものに出会ってみないと分かりませんが、その気の無い人には縁の無い話です。
それ以前に自分以外の誰かの教えに依存する思いや、自分自身の現実とは全く関係の無い霊だの高次元だの前世だのといったものにまつわる思いをどうかする必要が有ります。つまり自分を愛し、自分を信頼し、向き合うという事です。
まあ、カルト思考にはこういうことも闇の勢力の誑かしにしか聞こえないかもわかりませんけど…
五井先生は常に宗教の本質は”本心を開くことに有る”と言っています。
私はそのことを前提に書いているのです。
「神とか宗教を信じるとか、どうかじゃなくて自分を信じられなきゃあダメですね…自分を信じられたら宗教なんて要らないんです…」
五井先生の信者にはとても気に障ることをツラツラ書き過ぎてしまったようです。これも先生のことを思ってのことなんですが…
何故だか何かが乗り移ったように書かされてしまいました。




コメント (2)
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