人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

危急存亡の祈り

2016-04-16 19:42:32 | 祈りと瞑想
この度の熊本大地震、被災された方は大変な思いをされていることと思います。
月並みな事しか申し上げられませんが、心より平安をお祈りします。

大地震というものは、実際に災難に見舞われた方じゃないと分からないでしょうね。
私は1995年1月、阪神大震災を兵庫県で目の当たりにした事が有ります。
私の居住していた地域は、震度6。生まれて初めて恐ろしい揺れを体験しました。
この時私に感じられたことは、熊本で被災されたある方が語っていたことと同じものでした。
”まさかこの町で大地震に遭遇するとは思ってもみなかった…”
”起きるはずの無いことが起きた!…”こんなこと言うと、オーバーに感じられるかも分かりませんが、これは単なる地震なんかじゃなく、この世の終末に関連した、とてつもない事態が起きた、などと思ったものです。
二日後に電車が動き出したので、朝、大阪梅田の地下街に出てみたら、異様な光景を目にしました。
まだ開店二時間くらい前にも関わらず、百貨店前にリュックなどを背負った人の長蛇の列が出来ていて、そのすぐ横で何事も無かったように、足取り早く出勤に急ぐ、いつも見慣れている人の流れ…
神戸方面から来ている人と、離れた地域から来ている人との意識の違いをハッキリ浮き彫りにしていたのです。
私は幸い、かすり傷、打撲程度で済んだのですが、あの危急存亡の事態というものは分かります。
ああいう時というのは、ホントにホントにもう、祈るしかありません。
”祈ってどうなるのか、気休めじゃないのか…”と言う声も聞かれるかもわかりません。
”困った時の神頼み”などと普段クールな私も安易な信仰態度をバカにしたりします。
ものすごく手のひらを返したような、開き直った話に聞こえるかも知れませんが、危急存亡の時ぐらいは祈ったっていいじゃないか!…いや、どんな人だって、普段は運命は自分の力で切り開くものと自負している人も、無神論を決め込む人も、自然と手を合わしたりするものじゃないですか?
こういう場合には、どんな人にも与えられていることなのでしょう。
だからと言って、自分で今出来る事をしないで、ただ祈っているだけでいい、などとバカな事を言ってる訳じゃないですよ。
当たり前のことですが、私が普段書いていることというのは、危急存亡の事態ばかりを想定している訳ではありません。
自分の力で出来ること(人生の表側に関すること)と自分の力の及ばないこと(裏側に関すること)を混同させてしまうような事は言ってないつもりです!
最近のノンデュアリティの傾向にチョイ、チョイ批判的な事言ったりするのも、その辺りのことに感ずるところが有るからに他ならないのです。
又、OOの祈りとか、特定の人向きの祈りなどは、特定の人に任せておけばいいです。
でも、もしあなたや私自身の身に迫る問題に直面した時、どこかの集団に帰属したものでなく、自分自身から自ずから祈り心が現れてくるのではありませんか?
危急の時、人の顔つきは違ってくるものです。
自分に出来る事、出来ない事、力の及ばない事も思い知らされることも有るでしょう…
現実に直面していることを、究極の原理まがいのものが何の役にも立ちませんし、今わの際という時などで、瞑想などしてたら逃げ遅れてしまうでしょう…
でも、祈りというものは違います。祈りつつ自分の然るべき行動に取り組むことも出来ます。
祈りというのは形ではありません。
それは表側にも裏側にも通じているのです。
誰しもが、安直なばかりに挨拶みたいに”お祈りします…ご自愛下さい…”などと手紙などでしたためていますね。
皆、そうとは知らずに、”祈りはアールマイティなものであること”をやらされているのでしょうか?

だから…何であっても…私は祈ります。







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