あの朝、恐ろしい揺れに見舞われた直後、窓越しでしたが、外が稲妻のように光っていた(これが例の発光現象と思われます)のが見え、その直後辺りが全て真っ暗闇に包まれました。停電です。
私は着の身着のまま外に出たのですが、早朝のこととて誰一人見当たりません。
この時とても印象に残っているのは、なんて月の光は明るいものだったのか…ということでした。
それ以外の灯りというものは全て途絶えてしまった…ああ、お月さんあっての闇の間である事よ…
そして、家財が散乱しているし、またあの揺れが襲ってくるかと思うと、怖くて帰宅したくないので、しばらくの間私は情報というものが途絶えた中で寒空の中に街中を彷徨いました。
”一体何が起きたんだ!、本当に大地震なのか?、震源地は?”
とにかくこの時ほど正確な情報が欲しい…そして誰でもいいから話を交わしたい、と強く感じたことは無かったのです。
公的機関の情報。それはどこまで正確なものかは分からない…しかし、こんな時はそれに頼らざるを得ないのです。
こうした異常事態の時は情報も錯そうしがちですが、数十分後、停車中のタクシーに載せてもらって、ラジオ放送に接した時は本当に有難く思ったものです。
そして情報が明らかになるにつれて、空も徐々に明けてきだし、地震のもたらした現状も目の当たりにしたのでした。
(ただ、数日後、私の居住していたところから、十分ばかし歩いた、川向こうの市で見た惨状とは比較にならないくらいマシなものでしたが…)
一時間半くらいで公衆電話が開通したので、列に加わり待っていた時、再びグラ、グラッ…列のあちこちから悲鳴が上がる…震度4クラスの余震です。
その後、多分しばらくは大丈夫だろうと思い、家に帰りました。もう、体中から力が抜けてしまって何もする気がしません。体力も気力も無くなり、ごった返した家財もほとんど手着かずのままの状態でした。
こんな時、もし再びあの大地震に見舞われたら…と想像すると…
(この度の被災の、そのかつて聞いた事の無い続けざまの大揺れ…全く察するに余るものが有ります…)
この間、私は又知人から心無いデマ、流言も電話で聞きました。
”一両日中にあんな程度で済まない大地震がやってくる…”んだと!…バカヤロー!
大阪在住のこの人間は、あの危急存亡の一瞬に会ったことなど無いのです。
こういう時になると必ずといっていいほど飛び交うこのデマ、流言の数々…スピ界経由のものなど、スピ界の浅はかさ、愚かさを天下に公言しているようなものです。
彼らは自分自身の現実(私はこの現実という意味を多義的に使っています)としっかり向き合うことが出来ない悲しい人間です。
彼らが本当に生きた、動かしがたいリアルな現実に触れるということは、まずありえないことです!
そして、確証も無く空想、憶測に基づいた情報に容易く飛びつき、困ったことに外部に無責任なタレ流しをし始めるのです。
言っていることのほとんどは他人事に終始しています。
バーチャルな信仰まがいの話ばかりで少しもリアルなものは伝わってきません。
何故ならば、その言葉は所詮誰かからの借物であり、おおよそ誠、真という心性を欠いた仮物に過ぎないからです。
そもそもの発信源というものが又、どこから借りてきたものなのか分かったもんじゃないのです。
彼らはそして又臆面も無く言う、”公的機関の情報には騙されちゃいけません…”と…
だったら、ずっと全ての情報の途絶えた中で、宇宙人との通信などに明け暮れていたらよろしいじゃないですか!
この人たちに本当に必要な事は意識がひっくり返るような”激震”に見舞われることでしょう…
所謂公共の言葉、公言というものがどこまで真実なのかは分かりませんし、今回でもその限界に突き当たっている事が見えています。
でも少なくとも(見たままの、ありのままの)の現実に即したものを伝えようとしている企図は伝わってきます。
数多の流言の限りない浮遊感とは訳が違います。
限界とは、想定外のことが沢山起きているという事です。
今回の震災は、多くの点で21年前の阪神大震災と共通する面が有りますが、この点が大きく違うようです。
発光現象も地震雲も今では、オカルトまがいの妄言と一笑に伏されることも無くなってきたと思います。
公的機関の限界を知った民間の学者たちも又あくまで現実に即して限界に挑もうとしているようです。
公的情報も想定外な事に対応を余儀なくされてくるのでしょう…。
私は着の身着のまま外に出たのですが、早朝のこととて誰一人見当たりません。
この時とても印象に残っているのは、なんて月の光は明るいものだったのか…ということでした。
それ以外の灯りというものは全て途絶えてしまった…ああ、お月さんあっての闇の間である事よ…
そして、家財が散乱しているし、またあの揺れが襲ってくるかと思うと、怖くて帰宅したくないので、しばらくの間私は情報というものが途絶えた中で寒空の中に街中を彷徨いました。
”一体何が起きたんだ!、本当に大地震なのか?、震源地は?”
とにかくこの時ほど正確な情報が欲しい…そして誰でもいいから話を交わしたい、と強く感じたことは無かったのです。
公的機関の情報。それはどこまで正確なものかは分からない…しかし、こんな時はそれに頼らざるを得ないのです。
こうした異常事態の時は情報も錯そうしがちですが、数十分後、停車中のタクシーに載せてもらって、ラジオ放送に接した時は本当に有難く思ったものです。
そして情報が明らかになるにつれて、空も徐々に明けてきだし、地震のもたらした現状も目の当たりにしたのでした。
(ただ、数日後、私の居住していたところから、十分ばかし歩いた、川向こうの市で見た惨状とは比較にならないくらいマシなものでしたが…)
一時間半くらいで公衆電話が開通したので、列に加わり待っていた時、再びグラ、グラッ…列のあちこちから悲鳴が上がる…震度4クラスの余震です。
その後、多分しばらくは大丈夫だろうと思い、家に帰りました。もう、体中から力が抜けてしまって何もする気がしません。体力も気力も無くなり、ごった返した家財もほとんど手着かずのままの状態でした。
こんな時、もし再びあの大地震に見舞われたら…と想像すると…
(この度の被災の、そのかつて聞いた事の無い続けざまの大揺れ…全く察するに余るものが有ります…)
この間、私は又知人から心無いデマ、流言も電話で聞きました。
”一両日中にあんな程度で済まない大地震がやってくる…”んだと!…バカヤロー!
大阪在住のこの人間は、あの危急存亡の一瞬に会ったことなど無いのです。
こういう時になると必ずといっていいほど飛び交うこのデマ、流言の数々…スピ界経由のものなど、スピ界の浅はかさ、愚かさを天下に公言しているようなものです。
彼らは自分自身の現実(私はこの現実という意味を多義的に使っています)としっかり向き合うことが出来ない悲しい人間です。
彼らが本当に生きた、動かしがたいリアルな現実に触れるということは、まずありえないことです!
そして、確証も無く空想、憶測に基づいた情報に容易く飛びつき、困ったことに外部に無責任なタレ流しをし始めるのです。
言っていることのほとんどは他人事に終始しています。
バーチャルな信仰まがいの話ばかりで少しもリアルなものは伝わってきません。
何故ならば、その言葉は所詮誰かからの借物であり、おおよそ誠、真という心性を欠いた仮物に過ぎないからです。
そもそもの発信源というものが又、どこから借りてきたものなのか分かったもんじゃないのです。
彼らはそして又臆面も無く言う、”公的機関の情報には騙されちゃいけません…”と…
だったら、ずっと全ての情報の途絶えた中で、宇宙人との通信などに明け暮れていたらよろしいじゃないですか!
この人たちに本当に必要な事は意識がひっくり返るような”激震”に見舞われることでしょう…
所謂公共の言葉、公言というものがどこまで真実なのかは分かりませんし、今回でもその限界に突き当たっている事が見えています。
でも少なくとも(見たままの、ありのままの)の現実に即したものを伝えようとしている企図は伝わってきます。
数多の流言の限りない浮遊感とは訳が違います。
限界とは、想定外のことが沢山起きているという事です。
今回の震災は、多くの点で21年前の阪神大震災と共通する面が有りますが、この点が大きく違うようです。
発光現象も地震雲も今では、オカルトまがいの妄言と一笑に伏されることも無くなってきたと思います。
公的機関の限界を知った民間の学者たちも又あくまで現実に即して限界に挑もうとしているようです。
公的情報も想定外な事に対応を余儀なくされてくるのでしょう…。