この連休は毎年恒例となった浦和の氷川女体神社へ参拝に行きました。
眼下にそびえる広大な見沼跡(現公園)、竜体を思わせる見沼代用水の流れ…(かつて見沼には竜神の伝説が有りました)
この佇まいが好きなのです。
ここへ来るときは、いつも天候は決まって曇りのち晴れ、そして強めの風です。
別にこの季節じゃないとならない曰くが有る訳でも無く、ただ何十年も続いている私だけの行事です。
本当は大宮の氷川神社と、その中間の中川にある中山神社と合わせて行ったほうがいいんです。
大宮(父〉、浦和(母)、中川(子)で三位一体参りといった塩梅です。
私は、”神は我が内に居るのです”とか、いや”私が神なのです!”といった屁理屈はさて置き、神社ではちゃんとお参りしてますとも…
原始福音では、大集会の際比叡山や高野山、伊勢神宮…といった他宗教の聖地で行うなど、キリスト教界にあって前例の無い試みをしてきました。
日本の精神的伝統に根差した福音宣教の表れですね。
ただ手島先生は、伊勢神宮でもお参りはしなかったそうです。「僕は絶対に参拝しない。伊勢を尊敬することと、神社に参拝することは別だ。僕はキリストしか拝まない」と、宗教的貞操を守っていたのです。これは、まあキリスト教徒を自認する者として当然の在り方と言えるでしょう。息子の手島佑郎さんともども…
この点私の精神的歩みというのは、ムチャクチャなんてもんじゃない…”宗教的貞操って一体何だ…”って感じです。
十数年前、琵琶湖畔でのクエーカーの集会の折、古式豊かそうな神社が有ったので、神妙にお参りしていたら、後ろの方で古い会員さんはキョトンと立ったまま、それを見てました。ここで私が”そんなことしたらダメでしょ!”と言われるか、逆に”神社では拝まなきゃ、ダメだぞ!”と言おうものならタダ事じゃ済まなくなりそうです。
でも私はちゃんと心得ています。要らんこと言わなければ平和は保たれる、という事を…
元々私にはキリスト教の神、神道の神、ヒンズーの神…と宗教毎に神も分かれる、という認識などありません。
ただ、昔は傍から”違う神、他の神を拝んではダメです!”などと倫理めいた話が持ち込まれた時、当惑するしかありませんでした。(今だったらタダじゃ済まない…かも?)もう、精神分裂になりそうです。そう、それはまさに分裂、分離です!
私の精神も魂も一つしかない…いくら私が二重人格だろうと…これに関わる神も一つのはずです。
それが、神社だろうと寺院だろうと教会だろうと…
だから私には宗教的貞操観念は無いと言っていいでしょう。しかし…この事と純一無雑な信仰、求道、帰依の在り方という事は別の問題です。
純一でなければならない時は、右顧左眄しないでそうなるまです。これは自分の精神、魂と直に触れてくるような契機に有った時、否応なしにそうならざるを得ません!…直にということは、宗教教理とか神学とか修行システムとかエライ先生のご託宣といった、直接性の間に二義以下のものを介在させない、という事です。
私はそうした直接性ならぬ偶像化をもたらすものへの転倒的精神的在り方にこそ、宗教的ケジメの無さを感じています。
”神社参拝は偶像崇拝では?”何ていうのは噴飯ものの、野暮な話で、媒体を通してのシンボリックな在り方と偶像化の在り方の区別のつかない精神の貧困さを示しているだけです。そう言うんなら、”あなたの頭に祀られている偶像をなんとかしろ!”と言いたいです。
まあ、それも要らん事言われたらの話ですけど…
日本の神は八百万だとか、通説では言われていますが、それは、異宗教間の争いに陥ることなく、共存している様自体のことを言い表しているようにも思います。
私はこうした精神的風土にあって、この道を歩まされていることを実感しています。
と、同時にあの思いを超えた現臨感にも無条件に引きつけられてしまいます。
あれは私の中のユダヤの血(!?)がそうさせるのでしょうか? 私にはこういう共存もある…宗教的貞操も何も元々そういう婚姻関係でもあるんでしょうか?…
眼下にそびえる広大な見沼跡(現公園)、竜体を思わせる見沼代用水の流れ…(かつて見沼には竜神の伝説が有りました)
この佇まいが好きなのです。
ここへ来るときは、いつも天候は決まって曇りのち晴れ、そして強めの風です。
別にこの季節じゃないとならない曰くが有る訳でも無く、ただ何十年も続いている私だけの行事です。
本当は大宮の氷川神社と、その中間の中川にある中山神社と合わせて行ったほうがいいんです。
大宮(父〉、浦和(母)、中川(子)で三位一体参りといった塩梅です。
私は、”神は我が内に居るのです”とか、いや”私が神なのです!”といった屁理屈はさて置き、神社ではちゃんとお参りしてますとも…
原始福音では、大集会の際比叡山や高野山、伊勢神宮…といった他宗教の聖地で行うなど、キリスト教界にあって前例の無い試みをしてきました。
日本の精神的伝統に根差した福音宣教の表れですね。
ただ手島先生は、伊勢神宮でもお参りはしなかったそうです。「僕は絶対に参拝しない。伊勢を尊敬することと、神社に参拝することは別だ。僕はキリストしか拝まない」と、宗教的貞操を守っていたのです。これは、まあキリスト教徒を自認する者として当然の在り方と言えるでしょう。息子の手島佑郎さんともども…
この点私の精神的歩みというのは、ムチャクチャなんてもんじゃない…”宗教的貞操って一体何だ…”って感じです。
十数年前、琵琶湖畔でのクエーカーの集会の折、古式豊かそうな神社が有ったので、神妙にお参りしていたら、後ろの方で古い会員さんはキョトンと立ったまま、それを見てました。ここで私が”そんなことしたらダメでしょ!”と言われるか、逆に”神社では拝まなきゃ、ダメだぞ!”と言おうものならタダ事じゃ済まなくなりそうです。
でも私はちゃんと心得ています。要らんこと言わなければ平和は保たれる、という事を…
元々私にはキリスト教の神、神道の神、ヒンズーの神…と宗教毎に神も分かれる、という認識などありません。
ただ、昔は傍から”違う神、他の神を拝んではダメです!”などと倫理めいた話が持ち込まれた時、当惑するしかありませんでした。(今だったらタダじゃ済まない…かも?)もう、精神分裂になりそうです。そう、それはまさに分裂、分離です!
私の精神も魂も一つしかない…いくら私が二重人格だろうと…これに関わる神も一つのはずです。
それが、神社だろうと寺院だろうと教会だろうと…
だから私には宗教的貞操観念は無いと言っていいでしょう。しかし…この事と純一無雑な信仰、求道、帰依の在り方という事は別の問題です。
純一でなければならない時は、右顧左眄しないでそうなるまです。これは自分の精神、魂と直に触れてくるような契機に有った時、否応なしにそうならざるを得ません!…直にということは、宗教教理とか神学とか修行システムとかエライ先生のご託宣といった、直接性の間に二義以下のものを介在させない、という事です。
私はそうした直接性ならぬ偶像化をもたらすものへの転倒的精神的在り方にこそ、宗教的ケジメの無さを感じています。
”神社参拝は偶像崇拝では?”何ていうのは噴飯ものの、野暮な話で、媒体を通してのシンボリックな在り方と偶像化の在り方の区別のつかない精神の貧困さを示しているだけです。そう言うんなら、”あなたの頭に祀られている偶像をなんとかしろ!”と言いたいです。
まあ、それも要らん事言われたらの話ですけど…
日本の神は八百万だとか、通説では言われていますが、それは、異宗教間の争いに陥ることなく、共存している様自体のことを言い表しているようにも思います。
私はこうした精神的風土にあって、この道を歩まされていることを実感しています。
と、同時にあの思いを超えた現臨感にも無条件に引きつけられてしまいます。
あれは私の中のユダヤの血(!?)がそうさせるのでしょうか? 私にはこういう共存もある…宗教的貞操も何も元々そういう婚姻関係でもあるんでしょうか?…