人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

諸刃の剣

2016-05-03 15:05:59 | 求道、探究
全託、明け渡し…
私は何度も触れています。それは選択の余地の無い、そこに導かれた者にとって絶対的な意味を持った道である、と…
けれど、お気づきかも知れませんが、これは一歩間違うと全く個人の主体性を放棄した、あるいは自分の魂を別のものに渡してしまう、洗脳といったことと隣り合わせのものです。実に諸刃の剣という感じですね。
何処にその境目が有るかと言えば、間に人間が介在していて、その人間が信頼するに足る者か否か、という事になってくる訳です。
洗脳という場合にはそこに必ずと言っていいほど言葉というものが強力なツールとなっているものです。それに付帯して、怪しい目つきとか手つきとかいろいろなものがくっついてくるのです。
絶対的なんて言葉は軽はずみに言う事じゃないですが、あくまであなたや私自身にとってそうだ、と言っているのであって、誰かについて向けられたら、何時心を占領されるかわかったもんじゃないです。というか、それは自分から誰かを絶対視するのは奴隷願望の表れと観ていいでしょう…。
こうしたことでなくて、心霊的な事で先入観を持っている人がよく考えてるようなケースというのもあります。
以前に聞かれた事が有ります。”全託を促す、その現臨とか見えざる導師といったものが、低級霊みたいなものだったらどうするのか?”
私の場合、ごく普通の時、真夜中の墓場だとか病院などに居たら、そういった障りみたいなことについて考えない訳ではありません。
ただ、かのシェキナーというか臨在感に触れた時、そういう思い自体起きて来ません!
もし、そんな思いがあったら、そういう状況にはなりません!
だって、それは思いを超えたところから起きてくるんですから…当然でしょ!
中にはこんなことも…”その思いを超えるってのがアブナイことなんでは?”
そうね…そう思ってるからこそ、そういう思いが有るんだ(笑)
先ず、そのようにゴチャゴチャ、ザワザワとしたものに思いが捉われているうちは、全託何て事忘れるべきです。
少なくともザワザワした思いが消えるまでは、日常生活でお手上げになってた方がいい…
思った通りの、恐れた通りのことが起きたって誰も責任とっちゃくれませんよ。
低級だか高級だか知りませんが、どうだろうか、こうだろうか案じている、ということはきっとまだその時じゃないんでしょう…
精々、高級霊が懸ってくるまで修行に励むか、善霊、悪霊を見分けられるよう眼識?を持つことです。
何時になることやらサッパリ分かりませんが…(そのうち神の国が来るだろう)
その時が来ていない、という事は言い換えると覚悟が出来ていない、という事です。(ああでもない、こうでもないって、要するに余裕なんだ…)
より高い境地になってから、高級霊が何か分かってから…いやそういうことをズバリ言ってくれるどっかの覚者を求めてたりして…
だから…あなたはハマっちゃうんだってば…依存しちゃうんだってば…アブナイなあ…
実は私だって、あのものが神なのか、守護霊なのか、サタンなのか分かっちゃいないんです。
だけどね…仮にサタンであったとしても、全人生をささげても、地獄に落ちても本望なのです!(天国か地獄か…諸刃の剣みたいです。)
それが覚悟というものです! 他に道が無い、あらゆる相対、信じる、信じないを絶した、絶対的というのはそういう意味です。
これはどっから来るかと言ったら…自己信頼に尽きる!
又、あのものがそっちに導いてくれるのです。現臨に絶対的に従う事と、自分を絶対的に信じる事というのは二つ無いのです。
だから善霊だの悪霊だのって、問題など起きてくる訳無いのです。
先の人間を介しての明け渡しという事でも、その人間を通してその絶対的な道が開かれる場合もあり得ることです。
その場合でも全く同じです。その導師に対して(相対観を伴った先述の例とは違う意味で)絶対的信頼、帰依の心情も生まれるかも知れません。
でも、そこには自己信頼というものも必ずある筈でしょう…。
自己信頼こそが、まやかしだらけのスピの世界からも守ってくれる守護神でしょう…。



コメント (3)
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